教学に関する交流集会

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第11回教学に関する交流集会



第11回教学に関する交流集会 教学研究所は、金光北ウイングやつなみホールで「教えを生活に生かすには」をテーマに、第11回教学に関する交流集会を開催し、12名が参加した。

 この集会は、信奉者との対話・交流を通し、教学研究に対する意見や要望を聴くと共に、教学的課題の明確化と研究内容の充実を願いとして、各地で開催されてきている。霊地での開催は、今年で4回目となった。

 開会にあたり、大林浩治所長が、「この集会は、信奉者との交流を通して、信心する人の生きた姿をうかがい、教学研究の意義や課題を確かめ耕すことを願いに開催している。

 今回のテーマにある「教え」をめぐっては、それを忠実に捉えることと共に、人生の歩みや日々の生活に潤いをもたらすものとしてどう頂くか、といったことも大切にしたい。

 そうとして教えとは、教祖様の言葉に限られるものでなく、信心する人の生き様から滲み出ているものもあり、それを教えとして学び取ることも大事だろう。今日はそれぞれの経験を話し合う中で、生活に刻まれた教えのあり方に触れることを楽しみにしている」と挨拶した。

 会合では、まずはじめに参加者から自己紹介を兼ねてそれぞれの関心事や、参加への願いが述べられ、引き続き教学研究所の北村貴子助手により、テーマに関わって以下のような発題が行われた。

 「特定の信仰を持たないある米国人男性が、聖書の教えを忠実に守る生活を記録した『聖書男』という本がある。彼は現代の価値観を持ちながら教えを守る難しさを感じつつ、意味を汲み取り難い教えの実行も試みた。その中で思い掛けない教えの意味が開示され、世界の見え方が変わる経験をしたという。

 このことからは、時代に合わないように思える教えを工夫して実践することで、見え辛くなっている教えの意味を見させる可能性を思わされる。

 また私自身は、中学生時代に経験したある辛い出来事が、後に信心するようになった時、「後で考えてあれもおかげであった」との教えに導かれる形で、「おかげ」として捉え返されたことがある。

 これらの事例は、「教えの意味をどう正しく受け取るか」のみでなく、「一人一人の生き方や歩みにとって、教えがどのように意味を持って現れてくるのか」に目を向けることが、大切な信心の中身であることを告げているのではないか」。

  その後、発題内容を受け、参加者各自の体験・実感から、信心や教えをめぐって次のような意見・感想が出された。

今日の時代社会においては、様々な悩みや問題から多くの人が生き難さを抱えている。その中にあって、それぞれが他人と比較できない命を授かっていることの意味や、神様から願われている生き方に、信心や教えを通じて出会うことが求められる。

そうとして、同じ教えでもその受け取り方は一様ではない。例えば「難はみかげ」との教えは、「難そのものがみかげ」、あるいは「難をみかげにするのが信心」、といった受け取り方がなされる。各々が御取次を頂きつつ、生活の中で工夫しながら信心に取り組み、教えの真価に出会うことが願われていると思う。

人の立ち行きにとって信心や教えは大切であるが、教えの語り方によっては、聞く側を傷つけてしまうこともある。相手にどのような意味で届くか、という点に心を配り、それと同時に、お互いの関係性を作っていく日々の営みが重要だろう。

  なお、次年度も霊地での開催を予定している。


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