○ | 「あわい」は、理性的思考と感覚的理解の間に存在し、つい陥りがちな二分法を超えるための重要な概念だと捉えられる。しかし、「あわい」自体を固定化し対象化してしまうことには注意が必要である。なぜなら「あわい」は常にずれ続けるもの、固定化を拒むものであるからだ。その意味で、いかに混乱と向き合い続けられるかが問われているだろう。
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○ | この「あわい」的態度や思考は、様々な実践的場面で有効性を持つと考えられる。臨床宗教師の立場からは、「共に時間を過ごす」ことが重要であり、必ずしも結論を求めるのではなく、一緒の時間を過ごすこと自体に大きな意味がある。相談や傾聴の場面では、できる限り自分の価値観を持ち込まずニュートラルな状態で相手の世界に入ることが重要であり、これは従来の宗教的ケアとスピリチュアルケアの境界を超えた新たなアプローチとなりうる。
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○ | こうしたアプローチは、専門的な場面に限らず、日常のコミュニケーションの場面でも重要だろう。対人関係において相互にあるはずの「分からなさ」は、往々にして乗り越えられ、埋められてしまいがちだが、むしろそれを素直に認め、既存の価値観や先入観を一旦脇に置いて相手と向き合うことが大切であろう。こうした姿勢は、より深い相互理解と共感を可能にし、従来の枠組みを超えた新たな関係性の構築に思いがけずつながっていく可能性があるのではないか。
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○ | 教学研究においても「あわい」への注目は、神と人との関係や教義の理解を深めるにあたり、既存の概念や言葉では捉えきれない現象を理解しようとする過程で自然と生じるものであり、歴史資料の再解釈を通じて、教祖や神人関係の理解に新たな光を当てる可能性を持つだろう。例えば、「広前歳書帳」や「金子覚帳」などの資料を読み解く中で、従来の神―金光大神、氏子―参拝者という一直線の関係性を超えた、より複雑で重層的な関係性が浮かび上がってくる。このような資料との向き合い方は、従来の認識をゆさぶり、金光大神が確かめさせられていた神との関わりの意味を、限りのない無遮としての無縁にまで広がるものとして捉え直す可能性を示唆しているといえるのではないか。こうした新たな視点は、教祖や初期教団の実態をより多面的に理解する可能性を開いていくだろう。
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○ | 怨親平等の概念は、敵味方の区別なく死者を供養する日本的な思想として理解されるが、じつは近代に再発見され、ナショナリスティックな文脈で用いられてきたと指摘する研究もある。一見中立的な宗教的概念であっても、無批判な使用により意図せずナショナリスティックな言説に加担してしまう可能性があることには注意が必要であろう。
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○ | 教祖の体験における精霊回向の意味や、素朴な信仰心と神の力の関係性について、例えば伝承にあるような、高梁川を流れてきた金神様の札を祀るといった行為が神の力の源泉となる可能性は考えられる。しかし、このような素朴な行為の力を認めつつも、歴史的視点からの慎重な解釈も必要である。特に、成功した事例が記録に残りやすい傾向を踏まえるならば、記録に残らなかった失敗例や異なる結果をもたらした事例の存在にも想像力を働かせる必要があるだろう。
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○ | 現代社会の変容に伴い、「家族」や「縁」の概念の再考が求められている。「看取り難民」の増加というネガティブに言われる社会問題に関連して、「引き取り手がない」という表現については再考の余地がある。例えば自治体が対応した場合は「自治体が引き取った」と表現すべきであろう。それはこうした言葉の選択が社会の価値観や人々の意識に影響を与えるからだ。
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○ | 親から向けられる「無縁仏になる」という言葉が、LGBT当事者等にとってトラウマ的に響くことがある。これは従来の家族観や血縁を重視する価値観が、現代の多様な生き方と齟齬を来していることとして捉えられる。こうした問題に対し、「家」や「先祖」という概念を再考する必要があるだろう。
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○ | 現代の少子高齢化社会では、従来の血縁・地縁による信心の継承が構造的に困難となっていることを踏まえ、「先祖」という概念を血縁関係に限定せず、より広い意味での「祖先」として捉え直す必要性があるだろう。具体的には、血縁や法的な家族関係に限定されない、より包括的な「家」概念の検討が必要ではないか。例えば、「全教一家」のような宗教的共同体についてもそうであるし、あるいは志を同じくする人々のグループなどにイメージされる「家」についても検討し、柔軟で開かれた「家」概念の意味を明らかにすることが求められよう。
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