教学研究会

   文字サイズ

第64回教学研究会



 開催日:令和7年6月20日

第64回教学研究会

 6月20日、金光北ウイングやつなみホールにおいて、「それぞれの戦後80年―今を捉え直すために―」とのテーマの下、第64回教学研究会が開催された(オンライン形式併用)。

 この度の研究会では、午前に個別の研究発表、午後に全体会が行われた。全体会では、中里巧氏(本所嘱託・東洋大学名誉教授)をはじめ、本所所員2名の発題と、それを受けてのコメントの後、全体討議が行われた。

 開会に当たり、大林浩治所長が大要次のようにあいさつした。

 今回のテーマ「それぞれの戦後80年」は、一昨年のテーマであった「今、「歴史」はどう立ち現れているのか」との問いを思い返させる。いずれも単に過去を振り返るのではなく、捉えきれない「今」を問うための眼差しがそこにはあるだろう。

 歴史を済んだことと見なす人々がいるが、彼らが今への不満から現状打開を訴えるとき、その口ぶりはしばしば余裕を欠き、異論を許さない。驚くことに、その語り口は戦時中のそれと、なぜか酷似している。この無自覚な口ぶりの蘇りは、戦争を回帰させる大きな要因の一つとなりかねない。

 この問題は、歴史や信仰が政治的に利用される場面で、はっきりと姿を現す。沖縄ひめゆりの塔の展示を問題視する国会議員。史実を捻じ曲げて、ナチスによるユダヤ人虐殺をパレスチナの宗教指導者がそそのかしたと語り、今回の紛争の責任もパレスチナ側に押しつけるイスラエルの首相。あるいは現在の紛争を終末論的に支持する米国福音派の一部。そこに共通して見られるのは、自らの歴史認識の正しさを疑わない姿勢だ。その声は、立場は違えども皆同じ成分の人格から発せられているかのように響き、戦時下の国威発揚の声と重なって聞こえてくる。

 今回のテーマ趣旨は、戦争を語る際に、国家や教団といった大きな主語を用いがちであることへの用心深さを促しているが、それはまさしくこうした現状への問いかけだろう。大きな主語は、神や信仰さえも特定の意図で利用する道具にしてしまいかねない。その根底には、神さえもコントロールできるという人間の驕りが見え隠れする。そのようなあり方は、一人一人の命に対して「実意丁寧」であると、はたして言えるだろうか。

 時間の経過が戦争の記憶を薄れさせていく一方、その忘却に抗うかのような魂のあり方も確認出来る。沖縄で今なお現れるという日本兵の幽霊の話はその一例だ。彼らは日常の裂け目から不意に現れ、戦争がいかに受け止めきれない出来事であったかを突きつけてくる。それは、安易な慰霊や忘却を許さない。彼らの軍服姿は、今なお戦闘状態が続いていることを物語っているだろう。無数の死者たちの魂が、今を生きる私たちに、この世界のありようへ真摯に関わることを、迫っているように思えてならない。

 この度の研究会が、それぞれに都合の良い歴史解釈に安住するのではなく、むしろそれに抗う方向へと導かれる場となることを期待したい。あたかも戦没者たちの魂を傍らに感じながら、議論を深める機会となればと願っている。

 以下、午前の個別発表の題目と、午後の全体会の概要を記す。


午前 個別発表


○濵田裕太郎(助手)「新旧教祖伝記における伝承資料の位置」
○森定展開(助手)「明治期の北海道と本教関係者の諸相
    ―矢代幸次郎・杉田政次郎・岡本政道への着目から―」
○堀江道広(所員)「金光大神にとっての神職身分とその周辺
    ―神職資格喪失以降の「振り返り」へ向けて―」
○白石淳平(所員)「維新期の動乱と信心の創発
    ―岡山城下の様相に注目して―」


午後 全体会


【発題
① 戦後の教育とりわけ大学における思想と霊性の変容
         ―学生としてまた教員としての現場からの報告―  
 中里巧(教学研究所嘱託・東洋大学名誉教授)


 私自身の歩みと戦後社会の世相を対比させながら、とりわけ大学教育の現場における思想と霊性の変容について、学生として、また教員として過ごしてきた実感から報告したい。

 私は、一九六一年の小学校入学と同時に、偏差値教育の導入を経験した最初の世代にあたる。それ以前、例えば白樺派の影響下で人格教育が重んじられた時代とは異なり、ここから教育現場は大きく成績至上主義へと舵を切った。私たちはよく上の世代から「三無主義」(無気力、無関心、無責任)といった批判を受けたが、私自身は生きる意味を問い続けながら学問(実存主義哲学)を模索していった。成績至上主義の流れは、大学における研究評価が論文数で測られるような功利主義的な風潮へと直結し、現在に至っている。

 この功利主義的思考の浸透は、学生の価値観にも深く影響を及ぼしている。かつて社会福祉を専攻する学生から、「なぜ怠けているホームレスにおにぎりをあげるのか」と真顔で問われ、戸惑ったことがある。彼らの真面目さゆえに、「人生のスタートラインは誰でも平等であり、貧困は本人の怠惰に起因する」という素朴な自己責任論に至ってしまうのだ。こうした他者への想像力の欠如もまた、成績一辺倒の教育がもたらした一つの帰結ではないだろうか。小泉政権下で進んだ非正規雇用の拡大は、こうした社会の風潮をさらに加速させ、中高年の引きこもりや世界的に見ても高い水準にある自殺率といった、深刻な社会問題の温床となっている。その根底には、学校教育の過程で道徳や情操といった価値が、全くと言っていいほど無視されてきた経緯があるように思われる。

 一方で、既存の宗教や教団に対する若者の意識は複雑である。一九七〇年代以降、既成宗教への不信感と並行して、「あなたの知らない世界」や「ノストラダムスの大予言」といったオカルト的なものへの関心がメディアを通じて拡散した。統計数理研究所の調査によれば、現代の若者は特定の宗教を「信じない」と回答する割合が高いにもかかわらず、「あの世」の存在を信じる者や、「宗教心は大切だ」と考える者は半数近くにのぼる。これは、既存の宗教とは異なる形で、霊性や精神的な支えが求められていることの証左であろう。
 では、そういった状況を補完するものは何か。私は、その一つに戦後の流行歌があると考える。理屈を超えて人々の感性に訴えかける歌が、宗教に代わって人々の心を支える役割を担ってきたのではないか。

 例えば、やなせたかし作詞の『アンパンマンのマーチ』には、「時ははやくすぎる 光る星は消える だから君はいくんだほほえんで」という一節がある。論理的には破綻しているが、人を元気づける歌は、こうした逆説的な力を内包している。また、NHKの合唱コンクールの課題曲として制作されたアンジェラ・アキの『手紙』は、「いつの時代も悲しみを 避けては通れないけれど 笑顔を見せて 今を生きていこう」と歌い、悲しみの不可避性を認めた上でなお生きることを肯定する。そのメッセージは多くの若者の心を捉え、涙とともに歌われた。

 そして、東日本大震災の復興支援ソング『花は咲く』は、残された生者を死者が励ますという、極めてアニミスティックな世界観に基づいている。こうした死生観は、我々日本人にとっては自然に受け入れられるが、西欧的な論理では理解し難いかもしれない。

 結論として、戦後の教育現場にも見られた功利主義的な潮流は、現代社会に様々な歪みをもたらしたが、人々の霊性そのものが失われたわけではない。むしろ、既存の宗教が力を失う中で、こうした流行歌の中にその代替的な機能が見出され、特に若い世代の精神を励ます一つの源泉となっている。この動向を的確に捉えることが、現代という時代と、そこに生きる人々の精神性を理解する上で、有効ではないかと考えている。


② 矢代礼紀の戦争体験と戦後 ―戦後史研究の課題と展望―  
  山田光徳(所員)


 この発題では、本研究会のテーマ「それぞれの戦後80年」にある「それぞれ」の歩みへの注目が、教団史研究に持つ意味を考えてみたい。私は昭和末から平成期における教団史研究の新たな領域開拓を目指す中で、昭和62年に発足した「よい話をしていく運動」に着目した。その発足に関わった当時の矢代礼紀教監らの言説を分析すると、問題意識の背景に、彼ら自身の戦争体験が色濃く影響していることが分かる。

 矢代内局は、当時の教務教政の動向と教内の信心傾向について、次のような問題把握を示した。まず、かつての教務教政を「取次の生命性を追求する根源志向」であったと位置づける。この根源志向は、取次者に信仰者としての深い自覚を要請する一方で、布教の実態を取次者個人のありように帰着させる「人物中心主義」と、その個人の内面的な信仰に依拠する「心境主義」の傾向を生み出したとして問題視された。すなわち、信心が特定の個人の資質にとどまり、教えそのものが展開していく可能性を限定し、信奉者間の連帯も生まれにくいというのである。この点について、当時の川上功績教務部長も、個人の「一心」というあり方が方向性を見失えば危うさを伴うことを指摘し、教団の展開に向けた「信心の教義化・行為化」の必要性を提唱していた。

 彼らが人物中心主義や心境主義を問題化する背景には、戦争をめぐる経験が深く関わっている。矢代は、人物中心主義が、金光大神の信心を軍国主義といった世俗的な価値で覆うこととなってきた一因であると指摘し、「金光大神の信心はまだ独立していない」と主張する。その根拠として、単なる過去の出来事ではなく、戦後も繰り返し現前していた自身の戦争体験に言及する。例えば、本部のある教師から「お道の教師は戦争に協力すべきだ」という認識のもと、上海の忠信小学校への奉職を求められたことに反発し、教師の補命を見送った体験。戦時下に、日本から外地の教会へ帰ったある女性の悲劇的な死を知り、「なぜ強く帰国を止めなかったのか」と、50年後も後悔し続けることになる体験。そして、東京大空襲で死の恐怖に直面し、必死に救いを求めた体験。こうした体験は、「これまでの信心はダメだ」「人間が神仏をダメにしてきた。その最たるものが戦争だ」という痛切な問題意識へと結実する。それは、神仏を都合よく戦争に利用する人間のあり方への、自己を含めた深い反省であった。

 この問題意識の根底には、戦争体験から見出された、人間や宗教が本質的に有する危うさへの深い洞察が見られる。特定の人物やその心境に依存する信心のあり方が、全体主義的な時流と結びつく危険性を、彼らは自らの経験を通して警告したのである。直接的な戦争体験を持たない私たちにとって、彼らが提起した問題は、戦争という特異な状況に回収されるだけでなく、現代を生きる人間の信心のあり方を問い直す上で、重要な示唆を与える。

 また、こうした個別の経験は、今後の教団史研究のあり方にも問いを投げかけていないか。というのも、これまでの戦後教団史の研究が、教務教政史といった「大きな歴史」に光を当ててきたからこそ、改めて、いわば「名もなき教師や信奉者」の経験という「小さな歴史」の持つ可能性を考えさせられるのである。個々の信奉者の営みこそが我々の信仰像を形作ってきた側面がある。「教団」という大きな枠組みから個々を位置づけるのではなく、逆に「個から見る教団の歴史」という視点に立つことで、これまでとは異なる歴史像が立ち現れてくるのではないか。戦後80年という節目は、こうした新たな研究の可能性を切り拓く契機となるだろう。


③ 「戦後80年」の立ち上がり ―金光大神ら先人における争乱への態度に注目して―  
  高橋昌之(所員)


 昭和47年生まれの私は、先の大戦を直接には経験していない。しかし、私に戦争を伝えた親世代が身の回りから急速に不在となっていく中で、戦後80年という節目は、私たち自身の問題として本教の歩みを点検するよう迫ってくる。この発題では、本教が先の大戦で国家の総力戦体制に全面協力する手前の、日清・日露戦争から、本教信仰の淵源である金光大神の時代にまで遡りつつ、信心と戦争の関わりを問うてみたい。

 日本初の近代戦争である日清・日露戦時下、既に金光教は国策に沿い戦争に協力していた。本教の主導者である佐藤範雄らは、清国への傷病者慰問を通じて、国家の武力侵略に乗じた教勢の伸張を図り、日露戦時下の巡教では「東洋平和」を掲げていかなる人的、物的犠牲も厭わぬことが天皇と金光大神に報いる道だと説いた。ここには本教が人の生死から目を背け、信心の優位性を喧伝して憚らず、信心の存在意義を根本から否定しかねない危うさを孕む実際が露わになっている。

 この点に関わって当時の教内誌を窺うと、右とは異なる様相が見られる。日露戦の開戦当初は、兵士の後方支援に関する家族の心構え等、国家への奉仕を美徳とする論調が目立つが、戦局が進むと、戦意高揚を企図する言説では覆い隠せない、人々の心情が滲みはじめる。頻繁に掲載された、奇跡的な霊験に感謝する戦地からの手紙は、兵士や家族が抱える死への不安の裏返しであった。さらに遺族に対して、家族の死を国家のための犠牲として諦め、天皇に命を捧げたことを名誉とするべく促す記事も登場するが、彼らの傷口を覆うように利用されたのが金光大神の教え(「神国の人に生まれて神と皇上の大恩を知らぬこと」等)だった。人々の抱く感情を、教団の主導者らも感じたに違いないものの、そんな彼ら自身が抱いた戦争への疑問すら、金光大神の教えにより押さえ込んだ可能性が見られたのだ。

 こうした国家と宗教の関係を問うていくと、幕末動乱期の金光大神と「御上」との関わりに注目させられる。金光大神が生きた時代の内戦と近代戦争とは異なるが、争いや暴力が自明とされた時代感覚がどう生きられたのかは、重要な視点となる。

 幕末の大谷村を窺うと、長州再征に際して人員や物資輸送への動員体制が整えられ、領民の逃げ場が徐々に失われていた。その状況下、金光大神は神命により「御上」(浅尾藩等支配層)の「安心」を祈りながら、「御上」のもとで世の混乱が収まるためには、図らずも殺し合いの現場に身を置く者達が現れる事態を、視野に収めさせられたに違いなかった。しかし後に、幕府が倒されて将軍が「朝敵」になる等、その「御上」自体が揺らぐ事態が続発した。「御上」の旗色次第で領民の暮らしが翻弄される中、金光大神においては「御上」の立ち行きと、その下で人々が助かる事との関係性が、本人にも十分自覚されないまま重大な問題になっていたと考えられる。この点について、具体的な人々との関わりに窺われる様子から考察を加えたい。

 明治の世となって金光大神は、天皇を頂点に据えた新政府軍を「御上」と呼び、混乱の収束を期待した様子が窺われる。その中で広前には、戊辰戦争の官軍側出征者など、戦争を巡って様々な者が訪れた。中でも、金光大神が貧困に喘ぐ男性に人夫(部隊に徴用された非戦闘員)としての従軍を勧めたという伝承は、この男の助かりが戦争による殺戮や破壊への加担と隣接せざるを得なかった意味を考えさせる。金光大神は「危ないことはない」と勧めたと伝わるが、戦場には人夫でも捕らえられれば殺される命の危険が伴った。後に出征者から戦地の過酷さや加害の事実を聞き、帳面に書き留める行為の中には、目の前の者や遠く離れた人々の救いに向けた問いと、自身に向けられた神の思いを省みさせられる金光大神の姿が浮かび上がる。

 金光大神も時代の限界を生きており、広前を訪れる人々との関わりを通して、その限界に向き合わされていた。日露戦争期に主流の言説からこぼれ落ちた兵士や遺族の声、そして金光大神が向き合った殺し、殺される現実。戦後80年を迎える今も、世の中の暴力を信心が追認する可能性は常にある。現代に生きる私たちには、その危うさの意味を、金光大神らの姿に重ねながら問い続けることが求められる。


【発題を受けてのコメント
須嵜真治


 まず中里発題は、一人の研究者のリアルな実感を通して、「世代」を切り口に、「継承」という営みについての大切な視点を浮かび上がらせる。氏自身が先輩らとの葛藤を通じて何かを受け取り、自身の学問を模索した経験は、かつての「戦中派」と若い世代との深刻な対立といった、より大きな社会構造の表れでもあった。この視点は、今日自明視されがちな「戦争体験の継承」が必ずしも円滑に為されるとは限らず、むしろ断絶や闘争の歴史が内包している意味に注目する重要性を示唆する。さらに、ヒットソングを軸とした霊性の分析も非常に興味深く拝聴しながら、私たちが懐かしむ「共通体験」それ自体が、実はテレビなど巨大メディアによって構築されたものではなかったかとの問いも浮かび、私たちの「あの頃」という歴史認識そのものに静かな揺さぶりをかけてくる。

 次に山田発題は、いわゆる教務教政という「大きな歴史」ではなく、「個から見る教団の歴史」というアプローチを提示した。とりわけ、矢代礼紀という教政者の思想に、そうした視点が逆説的に見出される構造が興味深い。「人物中心主義」を批判し「脱-個人的」な方向を重視した彼の思想が、その原動力において、他者と共有しきれない極めて「個的」で身体的な戦争体験に根ざしていたという指摘は、重要な「ねじれ」を浮かび上がらせる。このねじれは、「教務に個人の信心を持ち込まない」といった理念を問い直させる。むしろ、「公」を担う強い意志がその人の「私」の最も深い部分から湧き上がるという可能性や、「公私混同を避ける」意識が、かえって自覚されにくい形で「私」を「公」の判断に作用させる可能性を示唆している。

 最後に高橋発題は、私たちの信仰の足場を二重の意味で揺さぶってくる。一つは、「正しさ」が成立しない状況における信心とは何かという根本的な問いだ。昨日までの正義が転覆する幕末の動乱期、貧しい者の救済のために争乱への加担を勧めざるを得なかった金光大神の姿は、「戦争は絶対悪」という盤石な正しさの上でしか信心を語れなくなってはいないか、という現代への鋭い問いを突きつける。そしてもう一つは、問いの射程を信仰の淵源である金光大神自身にまで及ぼすことで、信心と暴力の問題を「戦時下」という特殊な状況に限定させていないことである。このことはむしろ、私たちの「日常」が、きれいごとではない人間の生々しい現実と共にあることを示し、そこから信心の問いを始めるための、重要な足場を与えている。。


全体討議


第64回教学研究会_全体討議


「戦争は絶対悪」という盤石な正しさの上でしか信心を語れなくなってはいないかとの問いは、平和を希求する上で重要な基盤であるはずの前提が、かえって思考停止を招き、戦争をめぐる複雑な現実から目を背けさせてしまう危うさについて考えさせる。一方で、戦争が憎しみの連鎖を生む「悪」であることは論を俟たないが、自衛や国益といった現実的な文脈に置かれたとき、個人として、あるいは共同体として、どのような判断を下しうるのか。倫理的な正しさだけでは割り切れない状況において、いかに人の痛みを感じながら判断し、その責任を引き受けていくかが、現代に生きる我々の信心の課題として問われているだろう。

戦争を直接知らない世代にとって、体験談は時として「出来上がったイメージ」として消費されたり、語り継ぐべきという道徳的な要請が、かえって心理的な距離を生んだりすることがある。こうした体験の継承が持つ困難さは、単純な世代間の断絶という問題に留まらない。癒やされることのなかった心の傷(トラウマ)が、自覚されないまま世代を超えて継承され、現代社会のあり方にまで影響を及ぼしている可能性もある。過去の出来事を単に「知る」だけでなく、それが現代に生きる我々にどう作用しているのかを問い直すことが求められよう。

戦争が集団主義の一つの極みであったとすれば、それとは対照的に現代社会、特に若い世代には「集団への不信感」と、それに伴う「個人の不安感」が広がっている。この傾向は、集団の論理に安易に与しないという健全な側面を持つ一方で、社会への無関心や孤立を深める危うさもはらんでいる。信仰や教団といった、かつて「確かなもの」とされた共同体も揺らぐ中で、「公」と「私」、「集団」と「個」といった複雑な関係性において、人はどう生きるかという「実存」的な問いがより一層切実になっているだろう。

教団の歴史を、教務教政といった「大きな歴史」として捉える視点では、その陰で見過ごされてきた「名もなき人々」の経験を捉えられないだろう。そうとして、言葉にされなかった声や、記録に残りにくい個人の歩みにどうアプローチしていくかは、今後の大きな課題である。その具体的な方法として、目的を限定しないような広やかな「聴取」といったアプローチが重要であり、従来の歴史像をより多面的で豊かなものにしていくことが期待される。

信仰の淵源である金光大神の姿を、盤石で固定化された理想像としてのみ捉えるのではなく、時代状況のただ中で「揺れ動いていた」存在として向き合う視点が求められる。このことは当然、歴史上の人物を再評価するという意味に留まらない。むしろ、我々の信仰を原点に立ち返って問い直す営みとして、価値観が揺らぐ現代において信心がいかにして可能かを、金光大神の歩みに重ねながら探求していく実践的な課題となるだろう。

戦争という歴史的出来事との向き合い方において、「現前」という視点があげられる。これは、過去を単なる回顧の対象に留めず、今ここでの「出会い」という仕方で立ち現れる経験として、捉えることを可能にする。こうした経験のためには、客観的な分析だけでなく、そこに生きた人々の痛みや葛藤を感じ取る「情緒的な関わり」が不可欠であろう。このような歴史との対峙は、自明とされてきた価値観や歴史認識を点検し、我々自身のあり方を問い直す営みであり、信心のあり方を根源から見つめ直すことを一人ひとりに迫っているといえるのではないか。

サイトマップ


Copyright(C) by Konkokyo Reserch Institute since 1954