教学研究会

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第63回教学研究会



 開催日:令和6年6月21日

第63回教学研究会

 6月21日、本部総合庁舎4階会議室において、オンライン形式を併用して「神と人の〈あわい〉」とのテーマの下、第63回教学研究会が開催された。

 本所設立70周年を迎えるこの度の研究会では、午前に個別の研究発表、午後に全体会が行われた。全体会では、どこまでが人間の領域で、どこからが神の領域か、といった二分法的な理解を一旦保留し、境界や区別があいまいな〈あわい〉の状態に立ち止まることで、より生き生きとした信心の経験を探求することを目指し、土居浩氏(本所嘱託・ものつくり大学教授)による講演と、それを受けてのコメントの後、全体討議が行われた。

 開会に当たり、大林浩治所長が大要次のようにあいさつした。

 今回のテーマには、神と人との関わり合いについて、両者の割り切れないあり様や、曖昧な状態を念頭に置いて考えたいという意図がある。この「あわい」という言葉遣いには、神と人それぞれの輪郭がぼやけた中での関わり具合を扱おうとする思いが込められている。これは、理知主義的な人間観を前提とせず、まどろみに佇む人間の現在地を肯定的に受け止めようとする促しでもある。このテーマは、私たちの通常の考え方を見直し、神と人への理解の仕方自体を問い直す機会となるだろう。

 このテーマを考えることは、単に神や人、その関わりを縷々述べることやその作法の注意点の確認にとどまらない。むしろ、そうした私たちの認識自体を問い直し、信心を編み直す試みだと言えよう。世界は私たちの想像以上に大きく、複雑で変化に満ちている。そのため、神と人の輪郭を明確にして言葉で括ろうとすれば、そこに収まらないものが数多くあり、どの分類にも入らない事物や事柄が無数に遍在しているはずだ。この認識を踏まえ、閉じた理解から抜け出し、世界に触れていくことが重要となろう。

 「神あっての氏子、氏子あっての神」という言葉には、互いに助け合う関係性の中で神との関わりを見出し、大きな世界に触れ合っていくことが示唆されている。これは神自らが人間に語ったものであり、神だけでは救済し難いことを人間に伝えるものでもある。ここに現れる神は全能の力を発揮し世界を創造する神ではなく、人の配慮なしには神としての働きを全うできない存在だということを示すものとなっている。この視点から、世界の広がりや豊かさをより感じられる信心のあり方を考えていけないか。それは、直接的に力を行使し世界を変化させる神よりも、世界の成り立ちから変革させる大きな神の力を感じさせるものとなるだろう。

 教学の役割は、定義づけ、限定をかけての追究にとどまるのでなく、そこから世界の見方を変えるような経験を伴う取り組みにある。それは、私たちの感受性や理解力に働きかける、教学ならではのアプローチだ。自明な閉域から抜け出し、世界に触れる契機を生み出すことが求められている。この度の研究会が、私たちの知見の限界を認識しつつ、世界の広大さに気づき、自分たちの理解に収まらない神や世界の存在を感じ取る機会となることを願っている。そして、この研究会が、私たちの信心の価値表現を「神と人の〈あわい〉」から新たに汲み出し、信心のあり方を編み直す契機となることを期待している。

 以下、午前の個別発表の題目と、午後の全体会の概要(所外出席者については所属と教会名)を記す。


午前 個別発表


A会場
○塩飽望(所員)「「教祖とその家族」について」
○橋本雄二(所員)「信心の創造性への問い―『金光教教典』の編纂とその受容―」
○白石淳平(所員)「生きられた「教祖」の諸相―昭和40年代以降を中心に―」

B会場
○森定展開(助手)「北海道における布教の諸相」
○須嵜真治(所員)「「教団布教」体制構想期のメディア展開の諸相」
○山田光徳(所員)「「よい話をしていく運動」の発足とその周辺―新たな研究領域の開拓に向けて―」


午後 全体会


講演】:「民俗学と教学との間を民俗学的に考える
                       ―無縁供養・納棺の儀・文化の流用―」  
 土居浩(教学研究所嘱託・ものつくり大学教授)


土居浩(教学研究所嘱託・ものつくり大学教授) まず、無縁供養について、「無縁社会」という言葉が持つ問題点を指摘しつつ、現代社会における「無縁」概念の変容について考えたい。先行研究によると、無縁には5つの類型がある。具体的には、①身元不明の死者、②絶家して祀り手のいなくなった仏、③成人せずに死んだ子供や未婚のまま死んだ人、④水死や海難死、自殺など異常死した人の霊、⑤年忌明けした仏である。これらの類型を通じては、「無縁」が単に祀り手がいないという状態だけでなく、「家の外」という概念と密接に関連していることが浮かぶ。このことから、現代社会における家族観や死生観の変化が、「無縁」概念の捉え方にも影響を与えていることを指摘できるだろう。

 さらに、無縁供養の現代的展開として、大阪梅田の再開発現場で発見された江戸時代の墓石が、発掘作業員によって供養されるようになった例が挙げられる。役目を終えたはずの墓が現代人によって新たに祀られるという現象は、「無縁」に対する現代的な態度を示している。また、「七墓巡り復活プロジェクト」という、江戸時代に行われていたが明治以降途絶えていた習俗を現代に蘇らせている事例もある。SNSを活用しながら全国から主に一般の人々が有志として集まり、夜間に旧跡を巡るという形で、既に年一回の行事として定着しつつある。これも過去の無縁供養の形式が現代社会に適応され展開している過程として捉えられる。これらに加え、日本各地には多様な無縁供養の形態がある。

 以上のような事例を通じて、無縁供養が単なる過去の習俗の復活ではなく、現代人の死生観や共同体意識を反映した新たな文化現象として捉えられる。現代社会における「無縁」概念の捉え方の変化や、過去の死者に対する現代人の新たな態度が、これらの実践を通じて表現されているといえよう。

 次に、納棺の儀について、新たな通過儀礼の創造過程として、その意義を捉えてみたい。かつては実用的な作業の側面が強かったと考えられる納棺が、現代では新たな意味を付与され、遺族の心理的ケアの役割を担うようになっている。特に、通夜や葬儀が形式化・画一化する傾向にある中で、納棺の場面が故人との最後の触れ合いの機会として重視されるようになっている。さらに、模擬納棺式の実践例からは、これらの儀式が死生観教育としての側面も持つことが確認される。こうした納棺の儀の変容からは、現代社会における葬儀全体の意味や、私たちの死生観がどのように変化しているのかを問い直す必要性を考えさせられる。新たな儀礼の誕生が、従来の儀礼や儀式の意味を再考させ、死や別れに対する現代人の態度、価値観を反映する契機となっていることが示唆される。

 以上を踏まえつつ、アプロプリエーション(appropriation:文化の借用・流用・盗用)の概念を用いて、文化の受容と変容のプロセスについて考えてみたい。例えば、沖縄では蝶が「死者」や「霊魂」の化身とされているが、金光教も取り組んでいる遺骨収集の活動中、クロアゲハが飛んで来た際、沖縄の文化的背景を持たない本土の参加者たちの間にも、それを御霊のサインと捉える解釈が徐々に共有・浸透していく様子を目の当たりにしたことがある。そこには、文化の境界を越えた象徴の受容と再解釈の過程が浮かんでいる。また、トーテムポールの日本での受容にも注目したい。北米先住民の文化的象徴であるトーテムポールが日本の公園や学校に建てられ、さらに日本の民話やアニメのキャラクターと組み合わされるなど、元の文化的文脈から離れて再解釈される現象として捉えることができる。これらの事例からは、「文化は誰のものか」という根源的な問いが投げかけられている。とりわけ、研究者が民衆宗教をどう表象するかという問題以上に、実際に私たち自身が文化の流用に関わっているという事実を反省的に捉え返す必要性を考えさせられる。このように、「文化の流用」という観点は、単に学術的な議論の対象としてだけでなく、私たち自身の日常的な実践や態度を見直す重要な契機になると言えるだろう。

【全体討議に向けたコメント
①広がる取次の領域と取次者の余白 ―被災地・臨床・WEBに身を置いた実感から―
    岩本信治(乙島・東中国教務センター)


 本教教師であり、臨床宗教師でもある立場から、多様な場面で「取次」の経験を重ねてきた。これらを通じて、取次の領域が従来の狭義の取次から、「支えとなる取次」を含む広義の取次へと拡大しているのを感じている。

 多くの相談者、特にホームページを通じての悩み相談では、最初から教導や教えを求めているわけではなく、まずは悩みや苦しみを聞いてほしいという要望が強い。この「支えとなる取次」は、傾聴や共感、祈りを通じて行われ、信頼関係の構築につながり、最終的に教導へと発展していく。
 取次者が自身の価値観や信仰、教義を前面に出さず、相談者の言葉に耳を傾け、そこに神様が顔を出す余地を作る「余白」が重要だと考える。これは、「支えとなる取次」だけでなく、狭義の取次においても重要だろう。

 具体的な事例を通じて、この「支えとなる取次」と「余白」の重要性が明らかになっている。不登校の高校生の母親への対応では、傾聴に徹することで最終的に高校生の状況改善につながった。SNSを通じて悩みを共有する若者たちの様子からは、取次の新たな課題と可能性を感じている。これらの若者たちの多くは大人を信用せず、SNS上で互いの不満や生きづらさを共有している。直接介入が難しい一方で、SNSという場が若者たちにとっての「余白」を与えている可能性も感じている。臨床の現場では宗教者に対し、医師らから死に向かう場面や死後の世界観に関わる積極的な介入や教導を求める声もあり、生と死の境界における宗教者の役割の重要性が示唆されている。

 現代社会において、神仏や家族との繋がりが薄れていく中で、取次者が支えの代替的な存在となることの重要性を強く感じる。スピリチュアルケアの構造と、本教の「世話になるすべてに礼を言う心」の実践との関連性も見出されるが、こうした取次のあり方は、人が支えに満ちた生活を送ること、即ち神人となる生活を支えることにつながる。このような取次は、未信奉者も含めた多くの人々が潜在的に求めているものではなかろうか。

 取次の領域は社会の変化の中で一見狭まっているように見えるが、実際には広がりが求められており、同時に取次者の「余白」が広がることで、そこに神様の働きが生き生きと現れるのを実感している。聖と俗、生と死、教内外、生神、霊、葬る・祀るといったことに漂っているのがこうした「余白」であり、二元論的な区分を超えた場所、わが力や人間の考え、価値観を超えたところのものであると感じている。

②神、人、霊の間をめぐって      高橋昌之(所員)

 全体会テーマに関連して、二分法的理解への疑問を提起したい。神と人を分けて考える思考や、逆に連続性を前提とすることで、見えなくなるものがあるのではないかとの問題意識を抱いている。

 土居氏の講演を受けて、私は無縁の概念、特に「無主」(弔いの主体となる縁者が無い)と「無遮」(弔う主体に制限が無い)の間にある領域に注目させられた。土居氏が提示した無縁の諸相からは、霊の性質が固定的ではなく流動的である可能性が示されている。特に着目したいのは、本来は個別的で「無主」であった霊が、慰霊や供養を通じて、より普遍的な「無遮」の性質を帯びていく過程である。例えば、川村邦光氏が過去の教学研究会で言及した三界万霊や怨親平等の概念は、この変容の可能性を示唆している。無縁の霊を含め、敵味方の区別なく供養する日本の伝統的な慣習は、個別の霊が普遍的な存在へと昇華する可能性を示しているのではないだろうか。

 以上から、無縁の霊を単に「祀られない存在」として固定的に捉えるのではなく、人々の関わりによって変容し、新たな意味を獲得していく動的な存在として理解する必要があると考えている。この視点は、現代社会における慰霊や供養の意味、さらには神と人との関係性を再考する上で重要な示唆を与えるものではないか。
 次に本教の事例として、広島での原爆被害後の慰霊活動に注目したい。特に、佐藤盛雄先生(広島教会)が言及した「人間と共に苦しむ神」との出会いは重要と感じる。これは、神と人の関係を固定的に捉えるのではなく、苦難を通じて新たに見出される動的な関係性を示唆している。慰霊を通じて、神と人の関係が日々新たに発見される営みとしての意義を強く感じている。

 一方で、死者のモノ化や私有化の問題、生者が死者の代わりに語ることの危険性も痛感している。例えば、先の大戦をめぐる「大東亜戦争」という呼称の問題は、戦争の捉え方や歴史認識の複雑さを示すとともに、死者の意思を生者が恣意的に解釈し、利用してしまう危険性を浮き彫りにしている。これらを踏まえ、霊が主体となる弔いの可能性を探ることも重要だと考えている。同時に、研究者である私自身も、研究対象に働きかけられながら研究を行うという立場性を自覚する必要があるだろう。このような自己反省的な姿勢を持ちつつ、霊や神といった対象を固定化せず、常に新たな理解を求めていくことが重要なのではないだろうか。


全体討議


「あわい」は、理性的思考と感覚的理解の間に存在し、つい陥りがちな二分法を超えるための重要な概念だと捉えられる。しかし、「あわい」自体を固定化し対象化してしまうことには注意が必要である。なぜなら「あわい」は常にずれ続けるもの、固定化を拒むものであるからだ。その意味で、いかに混乱と向き合い続けられるかが問われているだろう。

この「あわい」的態度や思考は、様々な実践的場面で有効性を持つと考えられる。臨床宗教師の立場からは、「共に時間を過ごす」ことが重要であり、必ずしも結論を求めるのではなく、一緒の時間を過ごすこと自体に大きな意味がある。相談や傾聴の場面では、できる限り自分の価値観を持ち込まずニュートラルな状態で相手の世界に入ることが重要であり、これは従来の宗教的ケアとスピリチュアルケアの境界を超えた新たなアプローチとなりうる。

こうしたアプローチは、専門的な場面に限らず、日常のコミュニケーションの場面でも重要だろう。対人関係において相互にあるはずの「分からなさ」は、往々にして乗り越えられ、埋められてしまいがちだが、むしろそれを素直に認め、既存の価値観や先入観を一旦脇に置いて相手と向き合うことが大切であろう。こうした姿勢は、より深い相互理解と共感を可能にし、従来の枠組みを超えた新たな関係性の構築に思いがけずつながっていく可能性があるのではないか。

教学研究においても「あわい」への注目は、神と人との関係や教義の理解を深めるにあたり、既存の概念や言葉では捉えきれない現象を理解しようとする過程で自然と生じるものであり、歴史資料の再解釈を通じて、教祖や神人関係の理解に新たな光を当てる可能性を持つだろう。例えば、「広前歳書帳」や「金子覚帳」などの資料を読み解く中で、従来の神―金光大神、氏子―参拝者という一直線の関係性を超えた、より複雑で重層的な関係性が浮かび上がってくる。このような資料との向き合い方は、従来の認識をゆさぶり、金光大神が確かめさせられていた神との関わりの意味を、限りのない無遮としての無縁にまで広がるものとして捉え直す可能性を示唆しているといえるのではないか。こうした新たな視点は、教祖や初期教団の実態をより多面的に理解する可能性を開いていくだろう。

怨親平等の概念は、敵味方の区別なく死者を供養する日本的な思想として理解されるが、じつは近代に再発見され、ナショナリスティックな文脈で用いられてきたと指摘する研究もある。一見中立的な宗教的概念であっても、無批判な使用により意図せずナショナリスティックな言説に加担してしまう可能性があることには注意が必要であろう。

教祖の体験における精霊回向の意味や、素朴な信仰心と神の力の関係性について、例えば伝承にあるような、高梁川を流れてきた金神様の札を祀るといった行為が神の力の源泉となる可能性は考えられる。しかし、このような素朴な行為の力を認めつつも、歴史的視点からの慎重な解釈も必要である。特に、成功した事例が記録に残りやすい傾向を踏まえるならば、記録に残らなかった失敗例や異なる結果をもたらした事例の存在にも想像力を働かせる必要があるだろう。

現代社会の変容に伴い、「家族」や「縁」の概念の再考が求められている。「看取り難民」の増加というネガティブに言われる社会問題に関連して、「引き取り手がない」という表現については再考の余地がある。例えば自治体が対応した場合は「自治体が引き取った」と表現すべきであろう。それはこうした言葉の選択が社会の価値観や人々の意識に影響を与えるからだ。

親から向けられる「無縁仏になる」という言葉が、LGBT当事者等にとってトラウマ的に響くことがある。これは従来の家族観や血縁を重視する価値観が、現代の多様な生き方と齟齬を来していることとして捉えられる。こうした問題に対し、「家」や「先祖」という概念を再考する必要があるだろう。

現代の少子高齢化社会では、従来の血縁・地縁による信心の継承が構造的に困難となっていることを踏まえ、「先祖」という概念を血縁関係に限定せず、より広い意味での「祖先」として捉え直す必要性があるだろう。具体的には、血縁や法的な家族関係に限定されない、より包括的な「家」概念の検討が必要ではないか。例えば、「全教一家」のような宗教的共同体についてもそうであるし、あるいは志を同じくする人々のグループなどにイメージされる「家」についても検討し、柔軟で開かれた「家」概念の意味を明らかにすることが求められよう。

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