教学研究会

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第62回教学研究会



 開催日:令和5年6月21日

第62回教学研究会

 6月21日、金光北ウイングやつなみホールにおいて、対面形式とオンライン形式を併用して、「今、「歴史」はどう立ち現れているのか」とのテーマの下、第62回教学研究会が開催された。

 開会に当たり、大林浩治所長が大要次のようにあいさつした。

 「例えば、何か名状しがたいものとして直面している「今」を問題にする手掛かりとしての「歴史」。あるいは、「問題としての今」に対して、まず片付けられるべきだとする「歴史」。いずれにしてもそこには、人心に抱かれている不安や懐疑、鬱屈や不全感が漂っており、それは、ウクライナ情勢をはじめとした昨今の様々な目印に刻みついていると言える。

 確かに、「新しい戦前」との評価や、古い考えの世代を批判する声などにも不全感が漂う昨今の日本社会であるが、不全感を重ねて「今」を見切ったはずなのに、そこで依って立つ「知」それ自体を問う気配さえない。しかしこのことは、教勢の低下を不全感と共に問題にする私たちも同様かもしれず、その意味では、教団や信心を価値付ける眼差し自体が疑われていないことの方が問題ではないか。そうとすれば、そんな目で「今」や「歴史」を眼差そうとすることこそ問いに付されるべきだろう。

 そしてここからは、成長を至上としたり、利潤追求に価値を見る「強い」考え方でなく、見向きもされなかった「弱さ」への言葉や行為こそが、本当に必要とされてきたことに気付かされないか。救済や神への信心の必然性もそこに求められるという事実の重要性が、改めて顧みられてくるのである。

 そうとして、私たち自身がその重要性をなかなか表に出さずにきたのもまた事実である。しかし信心の「今」はそれに答えるように、これまでの「歴史」へ向けて「隠れなくていいから、出ておいで」と誘い出しているのではないか。教祖以来、つましく、あまさず暮らしていく日々の営みとともにあったはずの信心の姿が「歴史」に隠れたままだとするなら、「今」こそ、「遠慮せず出ておいで」と誘い出すことが必要であり、教学研究は、まっ先にそんな目を用意した営みでありたいと願う」。

 午前は、8名による個別発表が行われ、午後は全体会が行われた。教祖一四〇年を迎えるこの度の全体会では、これまで、何をどう「歴史」とし、「教祖」や「信心」、また「教団」を思い描いてきたのか。そこで捉え損なってきたものはないのか。そして今後、改めて何をどのように「歴史」としていくのか。ここからの「歴史」の可能性をめぐって、広やかに意見を交わすべく、標記テーマをめぐっての発題・話題提供の後、全体討議が行われた。

 以下、午前の個別発表の題目と、午後の全体会の概要(所外出席者については所属大学・教会名)を記す。


午前 個別発表


A会場
○橋本雄二(助手)「『金光教教典』の編纂過程や受容の様相について」
○塩飽望(所員)「「家庭」に尋ねられた信心の意義」
○岩崎繁之(所員)「神職資格喪失以降の金光大神の信仰活動の様相 ―明治5・6年頃を中心に―」
○高橋昌之(所員)「原子爆弾がもたらす経験の諸相とその意味 ―神への問いと平和の行方―」

B会場
○堀江道広(所員)「「金乃神様金子御さしむけ覚帳」に見る「さしむけ」の様相 ―金光大神のもとを訪れた者への金銭融通に注目して―」
○須嵜真治(所員)「神道金光教会支所について ―中島支所と「祈念簿」を手がかりに―」
○藤井麻央(東京工業大学特別研究員)「神道教会の形成と金光教」
○井上昌直(豊岡)「『善積順蔵伝 ―足跡とその時代背景―』執筆の視座―時代動向を紐解きながら―」


午後 全体会


発題】:「多声的な歴史」の試み ―教祖探求の経験をめぐって―」  白石淳平(所員)

 「歴史」の立ち現れが問われる今の特徴として、例えば、経済論理が先行する新自由主義の動向に顕著にみられる、自己責任の名の下に拡がる社会的格差や分断の状況が指摘できる。ここからは、個々の立場や利益を正当化するべく過去が都合良く解釈・改変されてゆく歴史修正主義的な認識の偏向を見ることができよう。また、その上でさらに、過去の経験それ自体がそもそも顧みられないといったありようも浮かんでくる。そんな時代社会の揺らぎに佇む今だからこそ、改めて「歴史」へと目を向け直すことが求められているのではないか。

 またその意味で、そんな時代社会にあって、近世から近代への移行期という大きな社会変動のなかに生きた「教祖」を問うとは、「教祖」や「信心」を思い描く、その前提としての「歴史」を今との関わりで問うこととなっているといえよう。そしてその問いは、二〇〇〇年代前後における性役割や社会的格差の議論への反動圧力(バックラッシュ)以降再注目される、社会や文化の様相を感性的な領域にも及んで捉えていく「歴史」への眼差しにも通じている。

 このことに関わって、新たな金光大神直筆資料類には、時代社会やそこに生きた人びととの具体的な関わりが色濃く浮かんでおり、従来「教祖」という一人格主体の「物語」として把握されてきた本教のはじまりの「歴史」が、いかに関係的で他律的な生成の問題として今を問うものかを考えさせられる。
 そしてそこからは、対社会的な問題への手立てを講じるべく「教団」が構想された昭和40年代以降の言説を取り上げ直すことが求められる。従来同時期は、安田好三内局を中心に、強力な主導のもとで様々な施策の実現をみていく教団史上の画期とされきた。しかし、高度に近代化していく社会の方の動向こそが、そうした言説主体を現象させていたと見るならば、同時期を「画期」とし、「教祖」や「教団」を思い描いてきた、その「歴史」への眼差しそれ自体が、今、改めて問い返されてくるのである。

 このように捉えると、例えば安田は「教祖」受容に関わって、「私の金光大神は、私をコントロール(制御)するほうでなく、私の信心活動すなわち話したり、行動したりするアクセル(始動力)の働きをする」と語っていたことが注目される。ここには、制度上の構築物として「教団」を実体視させるような規範的な眼差しではなく、それに抗う生成的な信心の可能性を今に問う「歴史」が浮かんでくる。

 さらには、現在の研究動向には、「家」観念や主体主義的な信心観の問い直し、あるいは「痛み」といった感性的・情動的領域を視野に収めた「歴史」把握などが、教祖、教義、教団史という各研究分野を問わず醸成されつつあるのであり、「歴史」自体の問い直しに通じていく方法・視点の立ち上がりを見ることもできる。そうとして、昭和40年代以降、今日に至る「教祖」探究は、もはや前提としての近代的「教団」との向き合い無くしては、その文体の変化も求められ難い歩みとして生きられてきたと考えられる。しかしだからこそ「歴史」は、常に抗いとしての問いが生成し続けてきた跡を刻み付けてきた。そのように見返す時、未だ「前提」の無い明治期、いわゆる教団草創期における様相は、改めて今にどのような問いを投げかけてくるだろうか。

話題提供】:①「社会教育をめぐる宗教への期待と警戒 ―明治末・大正期の社会教育行政を中心に― 」 松岡悠和(墨染・京都府立大学大学院)

  「学校教育・家庭教育以外の領域で行われる教育」として一般的に理解される「社会教育」はそもそも、明治末・大正期の時代状況において、社会事業(社会福祉)や天皇制教育等との関わりのなかで成立した歴史的な概念でもある。

 その成り立ちを見ると、帝国主義・資本主義の確立期に、国民統合を目指す支配層の要請のもと、社会教育行政が整備された。社会教育行政は、地方行政・社会行政を管轄する内務省と、教育行政を管轄する文部省をまたいで進められたが、国家から民衆への教育経路という面で課題を抱えた。社会教育の場合、学校教育のような制度的裏付けも、施設も、指導者も整っていなかった。そこで注目されたのが、当時全国に14万人いた宗教家であった。政府は宗教家に対し、国家と民衆の中間項として、支配層の要請に則した社会教育の実行を期待したのである。

 このように、ある政策の遂行手段として〈宗教〉を活用・動員する発想を、〈宗教〉利用論と呼ぶこととする。この利用論の射程に入る〈宗教〉は、実体のある宗教家、教団あるいは教義に留まらず、人間の内面にある宗教性、師弟間の関係性等、「宗教的なもの」にまで及んだ。そして社会教育行政は、その遂行にあたって〈宗教〉利用論を採り入れていったが、そこには〈宗教〉への期待だけでなく、警戒も存在した。

 〈宗教〉利用論が明治末・大正期の社会教育行政に受容された背景には、宗教家が地方町村の指導者層たり得ること、歴史的に社会事業の実績があること、そして宗教家には人心に働きかける「感化力」なるものが備わっていること等があった。他方で、〈宗教〉が天皇制教育体制そのものを揺るがす可能性を指摘し、社会教育における〈宗教〉利用論に反対する向きもあった。宗教家を天皇制教育に従事させることを意図して計画された大正元(一九一二)年の三教会同は、〈宗教〉への期待と警戒をめぐって論争を引き起こした。天皇制教育と〈宗教〉の対立可能性は、三教会同時点では潜在的なものであったが、大正期の宗教系少年団(ボーイスカウト)の動きに注目すると、それが顕在化する一局面を見ることができる。

 以上のように、〈宗教〉利用論を視点として宗教と教育の関係を概観してみると、宗教とどういう関係をとるのかということ自体が、社会教育とは何かという問いに深く関わってきたことがうかがえる。そして、そこでの有用性に応えようとする宗教側のスタンスは、数年来議論されてきた「宗教の社会貢献」とも関わってくるだろう。そうした求めにどこまで応えていくのか、あるいは少年団の例のように独自性をどこまで貫くのかといった点など、当時の様相は、今日の信心実践を取り巻く状況に投げかけられる問いとしても浮かんで来るのである。

話題提供】:②「明治末大正期の社会と金光教 ―社会事業の様相に浮かぶ実践の他律性―」
山田光徳(所員)


 明治42年12月26日、臨時総会を開いた金光教東備連合会(岡山県西部に位置する14の教会で組織)は、臨席した教監佐藤範雄から「女囚携帯乳児」保護に関する講演を受け、即日、同事業の実施と、それに要する積立の開始を決議した。その翌年2月には、実際に同会所属の教会が出監した乳児や親子を預かり、支援を試みたことが記録に残されている。

 事の起こりをうかがうと、佐藤は、同42年12月14日、別件で岡山監獄を訪れた際に偶々、女囚携帯乳児の実状に触れたようである。そこから彼は教務の合間を縫いながら、同監獄と交渉し女囚への「訓誡」を行うなど関わりをつけていき、東備連合会の事業実施へと結び付くことになる。女囚携帯乳児の存在に触れてから同会の決議に至る過程は2週間に満たない。

 さて、こうした即応的な様相は、佐藤や同会会員らの当事者達が、偶発的に当面した親子の実状や社会の現実に、如何に心奪われ、突き動かされることになったかを印象づけるだろう。加えて、そうした様相は、本教社会事業の内容を見るというに留まらず、われわれの信心ないしその実践の見方への問い直しを促してはこないだろうか。

 彼らの企図ないし実際の活動は、偶発性に起因し、また苦難を抱える人々の実状やそれを生み出す社会の現実との邂逅など、周囲との関係性に支えられており、謂わば、他律的な様相を呈している。このことは、これまでの社会事業の実践ないしその歴史が、当時者の信仰的主体性を基調として見てきたという特徴を、逆に問題視させるものとなっている。それはつまり、我々が信仰の歴史的様相を「主体」という近代の思考枠組みに強く規定された観点で把握してきたことを意味しよう。

 社会事業を取り上げた先行研究についても、国家と教団との関係性の眼差しから、転じて実践当事者への思いや意思、あるいは挫折葛藤といった心情にまで及んだ把握がなされてきたが、それはあくまで主体的な実践の様相としての取り上げだったと言える。もちろん、現在の営みに活力を与えるような主体的実践の把握が今後も蓄積されていく必要はあるのだが、紹介した事例は、そうした主体的な様相とは異なる角度から歴史を紐解いていく可能性として浮かぶのである。

 その意味で、そうした主体主義的な価値意識と、今日の教内外における様々な人間状況、とりわけ自己責任論的な動向に回収されるような思考との影響関係についても考えさせられる。強靭な個や強固な信心という理想を先立てる「べき論」的な思考が人間を疲弊させる現状、そしてそのことが、かえって「神」や「救済」を小さくしてしまう問題を思わされるのである。

 教団草創期の様相に浮かぶ実践のドタバタ感や他律性は、その成果のみで個々の営為を、つまり実践当事者という責任主体を評価するような「歴史」への眼差しが捉え損なってきたもの、すなわち、実践を生み、またそこに駆り立てる、信心の必然性に関わる生成としての意味を、今に投げかけているように思われる。


全体討議


教団あるいは信心の立ち上がりに関わって、明治期における個々の実践に浮かぶ他律性への着目は興味深い。そうとして、その当時の社会全体の動向をどう押さえるかによって、より大きなところでの意図や目的といった側面も浮かんでくるのではないか。その意味で「歴史」の捉え直しにおいては、個々の営みと共に、改めてそれを取り巻く時代社会の様相に広く目配せしていくことも同時に求められる。

国家による宗教の規制といったように、これまでは自律的な主体をめぐる「歴史」が一般的だったと思うが、発題や話題提供からは、他律性という視点も含め、関係的な問いとして改めて「歴史」を語り直していく可能性を感じた。

関係論的な問いの可能性に関わっては、個別発表での藤井麻央氏の議論も興味深い。そこでは、バウマンの所論を援用しつつ、人びとの参集といった流動性を有する〈リキッド〉な教会から、制度的な実体物としての、寺院型の〈ソリッド〉な教会への変化という押さえがなされていた。ここからは、現代の教会の形成過程という見方と同時に、〈ソリッド〉をどのように可能にさせた〈リキッド〉であったかというような、生成論的な捉え方も示唆されてこよう。

他律性という点では、安政4年における弟繁右衛門を介した金神と教祖との出合い、いわゆる「神の頼みはじめ」の様相も想起される。そうした、考える前に既に動いている、動かされているという様相にも、従来の自律的な主体としての教祖像とは別の捉え方が示唆されるだろう。

そのことに関わって、「覚書」解釈を中核として形成・受容されてきた御伝記以来の教祖像が、戦後における成長主義や自己承認欲求、そしてさらに自己責任論といった、ある意味しがらみとしての「歴史」に伴走してきた側面にも目を向ける必要がある。そして、今としてのそうした「歴史」への視点が同時に、例えば公共性といった、関係論的な問いの可能性を浮かばせていくことにもなるのではないか。

今回紹介された明治期の実践の様相や、昨今の公共性の議論からは、例えば臨床宗教師のような営みとの関連性も想起される。そこでは、問題を抱えつつも、どうそこに寄り添い共に生きるかというケア論としての問いがあるだろう。そうした視点から、教導といった一方向的で権力的な知の配分でなく、関わり合いを可能とする場として、教祖広前をより幅広く捉え返していく必要も感じる。

主体主義的な認識への批判には、「近代」という問題系をどう押さえ直すかという課題も含まれているだろう。その意味では、今日に至る教団の歴史において様々なかたちで問いに付されてきた「近代」を、その問題の仕方を含めて改めてチェックしていく要がある。またそこでは、例えば安丸民衆思想史における宗教的主体化といった、諸学の議論との影響関係に目を向け直していくことも必要だろう。

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