○ | 教団あるいは信心の立ち上がりに関わって、明治期における個々の実践に浮かぶ他律性への着目は興味深い。そうとして、その当時の社会全体の動向をどう押さえるかによって、より大きなところでの意図や目的といった側面も浮かんでくるのではないか。その意味で「歴史」の捉え直しにおいては、個々の営みと共に、改めてそれを取り巻く時代社会の様相に広く目配せしていくことも同時に求められる。
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○ | 国家による宗教の規制といったように、これまでは自律的な主体をめぐる「歴史」が一般的だったと思うが、発題や話題提供からは、他律性という視点も含め、関係的な問いとして改めて「歴史」を語り直していく可能性を感じた。
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○ | 関係論的な問いの可能性に関わっては、個別発表での藤井麻央氏の議論も興味深い。そこでは、バウマンの所論を援用しつつ、人びとの参集といった流動性を有する〈リキッド〉な教会から、制度的な実体物としての、寺院型の〈ソリッド〉な教会への変化という押さえがなされていた。ここからは、現代の教会の形成過程という見方と同時に、〈ソリッド〉をどのように可能にさせた〈リキッド〉であったかというような、生成論的な捉え方も示唆されてこよう。
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○ | 他律性という点では、安政4年における弟繁右衛門を介した金神と教祖との出合い、いわゆる「神の頼みはじめ」の様相も想起される。そうした、考える前に既に動いている、動かされているという様相にも、従来の自律的な主体としての教祖像とは別の捉え方が示唆されるだろう。
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○ | そのことに関わって、「覚書」解釈を中核として形成・受容されてきた御伝記以来の教祖像が、戦後における成長主義や自己承認欲求、そしてさらに自己責任論といった、ある意味しがらみとしての「歴史」に伴走してきた側面にも目を向ける必要がある。そして、今としてのそうした「歴史」への視点が同時に、例えば公共性といった、関係論的な問いの可能性を浮かばせていくことにもなるのではないか。
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○ | 今回紹介された明治期の実践の様相や、昨今の公共性の議論からは、例えば臨床宗教師のような営みとの関連性も想起される。そこでは、問題を抱えつつも、どうそこに寄り添い共に生きるかというケア論としての問いがあるだろう。そうした視点から、教導といった一方向的で権力的な知の配分でなく、関わり合いを可能とする場として、教祖広前をより幅広く捉え返していく必要も感じる。
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○ | 主体主義的な認識への批判には、「近代」という問題系をどう押さえ直すかという課題も含まれているだろう。その意味では、今日に至る教団の歴史において様々なかたちで問いに付されてきた「近代」を、その問題の仕方を含めて改めてチェックしていく要がある。またそこでは、例えば安丸民衆思想史における宗教的主体化といった、諸学の議論との影響関係に目を向け直していくことも必要だろう。
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