○ | 山田発題では、教会の存立をめぐる種々の要件が示され、また実際には、それら要件に可変的な面があることもうかがわれる。それは現在においても無関係ではなく、合併、解散はいつの時代にも成り立つ。そうした歴史事実が今日まで積み重ねられてきたのだとすれば、髙阪コメントにもあったように、合併、解散に至ることは決して特殊なことではないと思われてくる。この点については、時を経て再度設置された教会や閉鎖された教会の信徒が別の土地で信心を営む例などから、時間的、空間的な広がりも考慮しつつ向き合うべきだろう。
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○ | 野中発題からは、いま何を発信すべきかというような、教区だよりというメディアがもつ今日的な意義を考えさせられた。それは北九州教区のみならず、多くの教区、媒体が当面する課題ではないだろうか。そのことから、こうした取り組みを通じて得られた経験が、広く教務や布教現場に還元されるよう、有機的な関係を構築することが期待される。
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○ | 高橋発題で取り上げられた「老い」からは「死」というものも意識させられる。そうとしたとき、「生きたくば神徳を積みて長生きせよ」や「ポックリ往生を願え」といった「理解」相互の関係を、それら「理解」を受けた人々の状況も考慮しつつ考える要が浮かぶ。また、安楽死や自死といったことも教祖の事蹟や本教で営まれてきた信仰に照らしつつ、今後考えていくべき問題となろう。
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○ | 各発題、コメントから、地域社会や法制度、メディア、社会の価値観などが信心を営む上で如何に不可分かが見えてくる。ここからは、従来布教者たちの姿勢や情念などを基調に描かれてきた信心との関係をはじめ、総体的なものの見方が如何になし得るか、今後のさらなる議論が期待される。
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○ | このたびのテーマから、今日の社会と本教がどのように向き合っていけるかを改めて考えた。それは今のみならず将来を考えていくことに他ならない。高橋発題にもあった高齢化は日々進み、最近では年金制度、国民皆保険制度、医療保険制度の破綻への危惧が叫ばれている。人生の最後をどう締めくくるかということは政府も問題として取り組んでいるが、容易に構想、実現できるものではない。このことに関わっては、医療界から宗教者への期待も高まっている。こうした今日にあって、我々がどのように信心の言葉を語っているかに注視しつつ、いかに死生の安心をもたらせるかといった点など、社会のお役に立つあり方を求め続ける営みから構想される「今の信心」もあり得るのではないか。
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○ | 今日、例えば「老い」のように、さも問題であると認識されているものが沢山ある。そうだとしたときに、「老いの問題」ではなく、「問題となる老いとは何か」という方向転換によるズレを生み出すことで、気付かされるものがあるように思う。対象主義的に問題を問題として問うのではなく、問題とする認識基盤を問い直すことが、今必要であると思わされる。問われるべきは社会の価値観であり、それを眼差し、穿つのが信心ではないか。信心、あるいは神をも最初から前提とせず、認識基盤を徹底的に問うていくことで、そこに新たな信心、神との出会いが生まれるということもあるのではないだろうか。
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