○ | 発題では、遊廓関係者など同支所の場所柄に関わる願主にとどまらず、岡山市内や近隣村など周辺地域からの多数の願主の存在も確認できることが述べられた。当時の西中島という場所は芝居小屋や旅館があったり、城下に船で物が運ばれて来たりするなど、人やものの往来の玄関口であった。こうした地域的側面から考えたとき、例えば、「祈念簿」に複数回、定期的に名が記された願主について、その人物の職業など生活スタイルとの関係から、参拝が何かの「ついで」であった可能性も考えられる。同じ、神様にお参りする場所でもそこへ向かう目的は一つとは限らない。このような地域性や人々の往来の様相は、「布教」への改めての視点となるのではないか。
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○ | 願主が複数の広前を移動するという様相からは、地域的な「越境」ばかりでなく、信仰的な「越境」ということも考えられる。現代においても、自身が所属する教会があるという帰属意識はありながらも、旅行や研修で訪れた地にある教会に立ち寄り、願いを届け出ることがある。また、他宗教の信者でありつつ金光教の教会へ参ってくる人たちがあり、その中には、拝詞は唱えないが、お祭りや行事には参加するといった関わり方をする人たちもある。こうした様相は、ある種ごくありふれた光景だが、一方でそこに、豊かさや広がりを感じる今をどう考えるかというポイントもあるのではないか。
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○ | 発題でなされたような、帳面の来歴や何が記述されているかなど資料論的な出発から浮かぶ「御祈念帳とは何か」との問いに対応して、広前があり、結界があって、そこに取次者がいて、願主がいるというような、どこか固定的な関係が我々の想定にあることを思わされる。そこでは、なぜそれを「御祈念帳」と呼んできたか、その時の我々の意識がこれまでどうあったのかというような、歴史への眼差しが求められよう。
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○ | こうした問い直しは、なにも「御祈念帳」に限らず、時間を経て代を重ねていくうちに信仰的な意味合いが認められ、神聖視されていくものに目を向けさせる。そのようにして出来上がった「聖なるもの」が様々なところに存在すると考えられるが、その中には祭典や行事なども含まれるだろう。それらが「いつも通り」に出来ないという事態に直面している今であるが、その「聖なるもの」が出来上がっていく過程には、実はクリエイティブな信心の営みがあったという事実に改めて注目すべきではないか。例えば、理解が伝えられるその手前には、それが伝えるに値するものとなるための、聞く人間の豊かな経験があるはずだろう。あるいは、書かれ残されたものを優位とする文化はありつつも、焼けるなどして無くなることで永遠となるという考え方もある。聖なるものの現出を捉えようとする人間の行為や経験をより豊かに捉えていく方法、視点の練磨が求められる。その意味では、本教における金神や日柄方位についても、過去のもの、済んだものとして理解するのではなく、教祖がそのように見出した過程なり経験を改めて問い直していく可能性が考えられる。
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