◎ | 宗教的自覚としての霊性が希求されるとしても、その霊性がモノ化、商品化されているとの指摘があった。現状はその通りだとして、例えば商品化された霊性とは自分の思い通りになる対象であり、果たして霊性と呼べるのかが問われねばならないのではないか。霊性とは自ずと頭を垂れるような感覚だと思われるが、何が人に対してそのように働くのか、より深く考えていく要があろう。
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◎ | また霊性のモノ化や商品化について言えば、今回紹介された映画の他、アニメや漫画なども身の回りにあふれているが、特に若い人たちは、それらを通じて宗教的自覚を得ることもあろう。その面ではそうした形での霊性も評価出来るとして、モノ化に流れることの意味を厳しく見つめていなければ、これまで人々の間で大切にされてきたことが、瞬く間に失われていく危険性があるだろう。
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◎ | 「不安」「絶望」の発生源として述べられた「自由」に関するキルケゴールの言説は、三~四世紀にまで遡るようなキリスト教の考え方に近いことから、彼は非常に古代的な思想の持ち主だったと言える。その意味でキルケゴールの言う「自由」とは近代西欧的な意味とは異なると考えられるが、そうとして今日の人間状況を捉える上で、当時の盲点とされた感情や感覚に着目する彼の危機感の在処に関心が湧いた。
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◎ | 日本のような資本主義社会においては、講演にあった労働の自動化など、利潤の追求を目的とした科学技術の発達は必然であり、それを否定することは難しいように感じる。しかし産業革命以降の技術はそれを所有する少数者に都合の良い形で発達したことを踏まえると、それが人間全体にとって及ぼす意味を欲の問題として捉えつつ、背後に隠れる根本的な誤りに一人一人が目を向け続ける営みが求められる。
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◎ | もとは金光大神と参拝者とのやり取りから生まれ、文字化された「理解」を私達が受け取る意味を考えさせられた。それが金光大神の口から発せられた状況を想念し、霊性が吹き込まれるべく祈りながら向かうことで、「理解」が今に甦るのではないかと感じる。このことは取次の場面などで祈りながら聞き、祈りながら話すという実践にも深く関わるだろう。
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◎ | 書くことで知識がモノ化される一面はあるとして、講演でも述べられたように書く行為それ自体が声の文化より劣っているとは言えない。例えば筆者が全身全霊を傾けて書いた文章を読むことによって、そこに込められた霊性が感じ取られ読者に働きかけるということが有り得る。ここからは、「覚書」や「覚帳」を金光宅吉が筆写する行為と、それを著した金光大神の発現にも関心が及び、改めて直筆資料に触れることが持つ可能性を考えさせられる。 |