▽ | 宗教と遊廓の関係について、遊廓は社寺の近くに「精進落とし」として設けられたということを聞いたことがあります。京都の遊廓については、都市の周縁という見方とともに、社寺の周縁という見方もできるのではないでしょうか。
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▼ | 江戸時代以降の京都においても、社寺参詣と遊廓での「精進落とし」はセットでした。京都の場合、東山をはじめ都市の周縁部に社寺が立地しています。遊廓とともに社寺も都市の周縁であります。宗教と遊廓の関係で言えば、かつて、祇園は建仁寺の寺領であり、七条新地は妙法院の寺領であったように、宗教は地主として遊廓や花街から収益を得ていました。この点は、遊廓・花街に入って布教した金光教と大きく異なることだと考えています。
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▽ | 講演では、遊廓、花街に金光教の教会が多々あることが述べられましたが、それは意図してのことなのか、それとも諸般の事情により結果的にそうなったのでしょうか。
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▼ | 遊廓や花街を目がけてという面と、そこが布教に入りやすかったという面の両面があると思います。都市の周縁部には既成教団の救済が充分に及んでいません。このことからは、救済を求める人びとがそこに多く居たということと、その救済を金光教が担おうとしたという関係が考えられます。
また、遊廓や花街の地域の特性として、活発な人の移動に伴い、様々な人間関係や情報のネットワークが形成されていました。こうしたネットワークが布教の始まりや、その後の広がりに影響したと思います。例えば、京都の場合、嵐橘三郎をはじめとする芸能者が、金光教の遊廓、花街への浸透に関わって果たした役割は大きかったのではないかと思っています。
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▽ | 「御祈念帳」に記された娼妓の願いの様子について、それらは戦後の売春防止法施行の頃まで万遍なく見られるものなのかどうか。「お届」の件数や内容などに、年ごとの傾向や特徴があるのでしょうか。
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▼ | 姫路教会の「御祈念帳」をこれまでに見た範囲で言えば、梅ヶ坪の娼妓や妓楼主といった遊廓の関係者の割合が多いのは明治20~30年代初期であります。その後はやや少なくなっている印象を持っています。いま、その理由を述べる用意はありませんが、娼妓の願いの様子については、明治期のもののみならず、また、姫路教会の事例だけではなく、大正期や昭和期の「御祈念帳」を広やかに調べながら考えて行きたいと思っています。
ただ、このことに関わっては資料状況の問題があります。例えば、京都の場合、明治期の資料は収集されていますが、大正期以降のものは少ない。その意味で、資料の収集ということも今後の課題の一つになってくるのではないでしょうか。
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▽ | 娼妓に関わる願いの内容として、病気の回復や梅毒検査のことが示されましたが、娼妓を廃業したい等の願いはあったのでしょうか。あるいは、廃業を願うことができないという制限の中で、祈願可能なものとして病気回復を願っていたということになるのでしょうか。
また、この点には、願い届けた人物が、娼妓本人か、妓楼主かということも関わってくると思います。「御祈念帳」の中で、娼妓本人による願いであることが分かるものはあるのでしょうか。
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▼ | まず先に、願い届けた人物が誰かということから申しますと、娼妓の駆黴院からの退院の願いを行ったのは妓楼主です。門前教会は、夜間も教会を開けていたと伝えられています。また、色々な教会の文献には、娼妓や芸妓が参っていたことが記されています。こうした伝承、そして宮川町や祇園乙部、甲部、七条新地の立地を考え合わせれば、性器の傷の願いについて、娼妓が妓楼主と一緒に教会に来て、願った可能性を指摘することができます。もっともこの願い届けた人物の特定は、願いの解釈のあり方に関わることであるので、願い事の一件、一件に沿いながら検討していかなければならないと思っています。
次に、願いの内容についてですが、私は、廃業そのものの願いを見つけてはいませんが、娼妓にとって病気回復の願いは、早く年季が明け、解放される望みとつながった、公娼制度下での現実的な願いであったと考えています。これは、佐藤範雄の評価にも関わってくると思います。佐藤範雄は救世軍が行った廃娼運動について、現実的かどうかという問いを抱いています。この現実的というものの内容をどのように明らかにしていくかが、これからの大きな課題だと思います。 |