研究生入所式

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令和4年度 研究生入所式(5月9日)



高木博志氏(京都大学人文科学研究所所長) 金光教教学研究所では、次代を担う研究者の育成と、新たな研究動向が生み出されていくことを願って、研究生制度を設けている。このたび大武利沙(大分・別府)が研究生に委嘱され、入所式が同所で行われた。
 式では、大林浩治所長が次のようにあいさつした。
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 この度、本教信心への理解を深め、教学研究の御用へ積極的に関わっていく人が加わったことは、大変ありがたく思う。
 教学とは、「信心や信心に関わる事柄を学び、問うもの」である。しかし、そう述べてみて、教学が理解できたかとなると、どうも違うだろう。教学研究がどんな意味を持ち、教学はなにゆえ求められるのか、疑問や不全感が残るに違いない。
 このことは、教学研究としてお道の信心を「知る」ということが、単に知るのとは違うことに由来している。研究生に応募する者も、そのことは薄々感づいていると思われる。
 ところで、このような違いから生じているのが、研究の対象がどう対象となっているか、それが研究者自身にとって「信心との深い結び付き」を伴うものとなっているかといった、研究者の対象への見方や構えに対する問いであろう。教学研究で大事とされる批判検討とはこの問いによる働きのことである。
 この問いが、なにゆえ大事か。その例として、大淵千仭先生が述べた、昭和9・10年事件に対する発言を紹介したい。
 大淵先生は、同事件により「道の中心」が取次にあると教団が自覚したという、いわゆる「自覚史」観の自明視に異を唱えた。そして、「一つの見方に押さえ込むように見るものでない、その見方こそ検討の要がある」と述べている。歴史から得られた見方を、当の歴史に当てはめるのは本末転倒だ、というのである。このように対象へ深いまなざしを向けることは、教学研究の大切な役目であると考える。
 いま、何かにつけて「そのように見るべき、するべき」と迫る言葉が多いと感じる。どこか信心を利用して「正しさ」が言われてはいないだろうか。教内のそうしたものの見方や、信心を求めあらわすあり方にも、一つの意見に丸め込むように捉えるのと同じ、「からくり」があるように思うが、どうだろうか。
 この問題を考えさせる別の例として、片島幸吉先生を挙げたい。片島先生は、幼い頃、実母と離れることになったその間際の、母と過ごしたわずかな時間を「味わい深い生活の感じ」と振り返り、その感じ方に、人間が生活を営む上での中心的意味を見た。そして物質主義(精神的なことより物質的・即物的なことを優先するあり方)や事功主義(成果でものを考えるようなあり方)が勢いづく第一次大戦中の世にあって、広前奉仕までも一つの手柄のように見て評価する、教内状況を問題視していたのだった。片島先生のこの指摘は、現代においても、どこか通じるのではないか。
 こうした感覚や、ものの見方の構えを問うていくあり方は、信心にとって最も大事なことであり、教学研究が必要になる、その意義を見る思いがする。
 5ヶ月間という限られた時間だが、この機会と時間を大切に、教学研究が自分自身と信心との出会い・発見ともなるように、研修を進めてもらいたい。

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 続いて、研究生が抱負を述べ、担当の指導所員が発表された。 なお、研究生は9月30日まで実習に取り組む。
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