研究生退所式

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令和4年度 研究生退所式(9月29日)



令和4年度研究生退所式 金光教教学研究所では、教学研究の次代を担う研究者の育成と、新たな研究動向が生み出されていくことを願って、研究生制度を設けている。このたび、大武利沙(大分・別府)が、五か月の実習期間を終えた。

 式では、大林浩治所長が次のように挨拶した。

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 この研究生期間について、いつも思わされるのは、研究生それぞれにその人なりの取り組み方があり、そこでは当人にとって出会うべき問題に直結しているであろうということである。この度、実習に取り組む中では、論文の読みや文章を書くこと一つとっても、周りの研究者と自分とのレベルの違いに押しつぶされるようなこともあったかも知れない。周囲に合わせ自分の読みの間違いを正そうとすると、自分がちっぽけなものに感じられもしたのではないだろうか。

 しかし、このような、自身に卑小感を抱かせるありようは、見方を変えると、「正しさ」の問題が根強く取り憑いていることを示していないか。論文には正しい読み方があるとか、こうある信心こそが正しい、といった形で目にしたり、耳にする問題となっているだろう。注意したいのは、そこでの「正しさ」は、自立していないとか、自我が弱いといった言葉で人を追い込むように高圧的に響くということだ。

 それにしてもいま、世の中がこのような「正しさ」で溢れていることも思わされる。真っ先に浮かぶのは、人を戦地に送り出す戦争の言葉であり、政治の言葉も然りである。では信心の言葉はどうか?

 例えば、「世俗の価値観と信心のそれとはそもそも違う」という仕方で語られる「正しさ」をあげてみたい。奇妙なことに、そうして語られる言葉もまた、「正しさ」が力を持つ世俗のルールの内側で取り上げられているだろう。だがそのことには気が付かず、違いばかりが言われてはいないか。しかも大きな声で。だからか、そうした声は周囲に同調を強い、時に戦争スローガンと同じように響くこともあるだろう。

 こうして見ると、「正しさ」は大変厄介なものだということに気付かされる。「信心は世俗的な価値では推し量れない」、これは尊い真実かもしれない。しかしそうとして、そのことが大きな声で言われるとき、それを受け止める側は、そこでの「正しさ」の言われ方に気をつける必要がある。でなければ、聞くべき声を聞き漏らすことになるからだ。

 自分をちっぽけな存在に感じるとき、その卑小な自分は、自分に向けてこうつぶやくのではないか。聞くべきは小さな声だと。それも、耳を傾けていないと聞こえてこないような…。そのことに気付いたとき、教学はそこを起点に歩みだすことを促しているといえるだろう。

 教学はそのようにして、その人でなければ見えない、聞こえない、気付かないものを大事にしていると言える。私はこの度の研究生の取り組みの様子に、教学の起点となり得るものを、たしかに見たと思っている。

 この度、大武さんは、直接には研究という道から離れるが、教学の起点にはいつも立つことが出来るのを学んだと思う。私たちは今後とも、大武さんの御用成就に祈りを捧げていきたい。
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