研究生入所式

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令和5年度 研究生入所式(5月1日)



研究生入所式_R5 金光教教学研究所では、次代を担う研究者の育成と、新たな研究動向が生み出されていくことを願って、研究生制度を設けている。このたび森定展開(香川・玉藻)が研究生に委嘱され、入所式が同所で行われた。
 式では、大林浩治所長が次のようにあいさつした。
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 この度、教学研究の御用へ積極的に関わっていく人が加わり、私たち職員も一層身の引き締まる思いである。
 昭和33年の研究生入所式の所長挨拶で、大淵千仭先生はある教内の声をとりあげ、疑問を呈されている。その声とは「教祖や直信の時代の信心が今日に伝わっていない」として、「信心の復活」を求めるものである。それに対し、大淵先生は「はたして時代への検討なくして、今日の社会、生活のうえに生神金光大神取次のおかげを実現し得るだろうか」とされ、「今日の人間の問題を解明し、そこに信心がどう働きをなし得るか、教祖の御信心、御取次から頂いてこなければならない」と述べられた。
 この言は、まさに教学の意義として頂くことができるが、少し立ち止まって、その言葉の聞き受け方について考えてみたい。たとえば、これぞ教学の意義だというように聞いてしまうとすれば、そのとき信心の働きは現代の社会に及びうるものとして安易に前提化されているだろう。そして、働きが及ばないとすれば「それは信心ではない」と見做し、振りかざすようにして信心や教学の言葉を用いる危うさが生じかねないように思う。そうならないためにも、教学の意義として発せられる言葉が、いかなる思いをまとわせて聞くことへと導くのか、考える必要がある。
 それを考えるヒントとして、小説家の大江健三郎さんの言葉を紹介したい。大江さんは、ノーベル賞受賞時のスピーチ(「あいまいな日本の私」)の中で、「人類全体の癒やしと和解」への貢献をいかになしうるかを、「ひ弱い私みずからの身を以て、鈍痛で受けとめ、とくに世界の周縁にある者として」切願されていた。大淵先生が指摘された「今は、信心としての適切な働きがつきがたくなった」という問題は、社会の中心ではなく、周縁で苦しむ人への救いの実現に直結しているのであり、それは、世界や社会の中心に教祖の信心を打ち立てようとして、大上段にかまえることとは違っていよう。その意味で教学の意義は、大江さんがわが身の問題として受けとめるような切実さをもって聞き受けることが大事になるのではないか。
 「教学は信心の自己吟味、信仰生活の拡充展開に資する」と言われるが、それも教学の意義をどう受けとめ、実行しようとしているかという、研究者個人のありように如実に現れる。研究生も、五ヶ月という限られた時間ではあるが、わが身にふりかけるようにさまざまな問いを受けとめ、取り組んでもらいたい。
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 続いて、研究生が抱負を述べ、担当の指導所員が発表された。 なお、研究生は9月30日まで実習に取り組む。
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