第15回教学講演会記録

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第15回教学講演会講演記録



児山真生(教学研究所所員)


資料で知る、信心の奥深さ、そして“力” ―明治期布教史研究の取り組みから―


はじめに


教学研究所 兒山真生 教学研究所の児山真生と申します。私は、教団の歴史について研究しています。

 歴史を調べていると、しばしば「知らなかった」、「分からない」、さらには色々考えてみて「辻褄が合わない」と思う事柄や内容と出合います。私は、歴史の中にある「知らないこと」「分からないこと」、「辻褄が合わないこと」を、「信心の可能性を拓くチャンス」として受けとめています。

 このように考える理由を、「辻褄が合わない」と思う場合を例に申します。「辻褄が合わない」と思う原因は、えてして、歴史的事柄にではなく、多分に事柄を見る私たちの側にあります。いうなれば、自らの信心理解の拙さ、曖昧さ、先入観が、歴史的事柄に向かって「辻褄が合わない」と言っているに過ぎないということであります。よって見方を変えれば、「辻褄が合わない」と思う事柄には、なお一層「信心の可能性を拓くチャンス」が秘められていると捉えることができます。このように捉えると、続いて、「それはどういうことだろうか」と、研究への意欲やさらには信心を「求める力」がわいてきます。そして、「辻褄が合わない」と思う事柄を問い求めて行く中に浮かび上がってくる「辻褄」というものに、「このお道の信心の底力」を改めて知るようなことであります。

 お道の歴史の中には、まだまだ知られていないこと、分かっていないことが沢山あります。その意味で、非常に奥が深い。また、時代が下るにつれて、段々と忘れられていくこともあります。このようなことを一つでも、また、少しずつでも、明らかにし、示していくことも教学研究の役割の一つと私は考え、研究に取り組んでいます。

 本日の話では、研究の内容や結論もさることながら、研究の手前にある、疑問や関心、あるいは着目点を、研究で用いた資料を示しながら申し述べたいと思います。

 話の順番としては、最初に、金光大神広前の様子を申します。続いて、布教史研究の視角について述べます。その上で、先だって発表した研究論文で取り上げた金光喜玉師をめぐる研究の要点部分を申します。

(1)金光大神広前における「願主」の様相


 金光大神のもとには、安政年間から参拝者があったと言われています。いわゆる幕末期の信仰圏は、備中大谷村を中心とした近隣エリアであります。それが、明治期に入りますと、さらに広い範囲から、願主が現れてきます。

 このことは、「広前歳書帳」と研究所では呼んでいます、いわゆる「教祖御祈念帳」からうかがえます。「広前歳書帳」は、現在、明治2年から明治13年(ただし、明治6年は欠本)までのものがあります。「広前歳書帳」を分析した研究として、小関照雄先生の論文(「『広前歳書帳』(教祖御祈念帳)について」紀要『金光教学』第27号、1987年)がございます。小関論文では、「広前歳書帳」にうかがえる願主の分布圏が、下掲の通り図示されています(小関論文127頁)。

「広前歳書帳」にうかがえる願主の分布圏

 この図からは、願主のおおらかな分布傾向がうかがえます。この図を見ていますと、さらに、具体的にどのような町や村から参って来ていたのかという関心が芽生えます。とはいえ、「広前歳書帳」は、「一打ち」の件数だけでも10万6241件と示されているように、非常にボリュームがあり、全ての願主について調べて、明らかにするのは少々困難ですが、私は、以前、四国地方に限って「広前歳書帳」に記載されている願主と、さらに青木茂先生が『笠岡金光大神』に著された、明治5年の笠岡広前(斎藤重右衛門師)の「四国路」からの参拝者出身地を併せて、図に表したことがあります。

 その図を、以下に四国―図1、図2として示します(児山真生「地域の社会関係と講社」紀要『金光教学』第47号、2007年、34~35頁)。

 図1は、四国全体を表したものです。図2は、図1の中で四角で囲ったエリア(燧灘沿岸地域)を拡大表示したものです。また、「広前歳書帳」からは、瀬戸内海島嶼部のほぼ全域から願主がいたことがうかがえますが、この図は、瀬戸内海島嶼部を割愛し、作成したものであることを申し添えます。

〈四国―図1〉
四国―図1


〈四国―図2〉
四国―図2
 以上のように、願主の出身地を図にして見ますと、四国方面でも、比較的海辺に多いことが分かります。加えて、この図からは、舟(船)の働き、つまり舟運と信仰伝播の関係が浮かび上がってきます。

 では、どういう人びとが、金光大神に願い届けをしていたのか。それは「様々」と表現するしかないくらい、多種多様であります。そこで「広前歳書帳」の中から、少し、事例を挙げて申してみます。

 【「広前歳書帳」の記載事例】
 
明治2年2月16日一、下州本町 卯年 男 寺 志ん願 三十九 家内安全
一、三原 亥年 男 寺 三十一才 曽 むね
一、同 曽 未年 女 身上 三十五 かいうん
一、同 同 酉年 女 め
一、加賀国 下州おり 巳年 女 三十七才
  女曽 身上安全
明治7年6月8日一、美野国大がき 二十六才 ひへ
一、遠江国浜松 四十二才 安全
明治12年8月10日一、おわり国順礼 ふふ 浣米願

 ①は、広島県三原にある寺院の僧侶たちが、金光大神に願い届けたことを示す事例です(ただ、全員が参ったのか、あるいは代表者のみが参ったものかは判別できません)。加えて、この者たちは、翌年の3月と4月にも願い届けをしています。

 ②と③は、住所からも分かるように東海地方からの参拝者であります。まず③ですが、ここには「順礼」という言葉が記されています(なお、「浣米願」とは、剣先の形に折った包み紙に洗い米を納めたものの下付を願った、という意味)。

この者達は、四国遍路あるいは西国巡礼の途中で参って来たいわゆる「ついで参り」のご夫婦であると思われます。

 また、②の事例ですが、この二件は帳面上、連記されていることからも二人連れだっての参拝であったと思われます。ここでは、美濃、遠江からという遠来の者たちの願い事が「ひえ」と「安全」であったことに目がとまります。この祈願のためにわざわざ東海地方から備中まで参って来たとは考えにくく、おそらくは③の事例と同様に、巡礼途中、あるいは行商などの「ついで参り」ではなかったかと思われます。

 以上、述べてきたことをまとめてみますと、「広前歳書帳」からは、巡礼に見る「ついで参り」の者をはじめ、様々な信仰への契機、意識を持った者が、金光大神広前に願い届けをしていた様子がうかがえます。このことが可能になる前提には、「来る者拒まず」とも言える、金光大神の信仰姿勢があります。

 金光大神の広前について、私などは、熱心な、また必死な思いを持った者が一直線に参ってきたかのような印象を強くしがちですが、「広前歳書帳」を見ることによって実はそればかりとは言えないことが分かります。たとえば布教者のような信仰を専心的に営む者のみならず、多種多様な生活背景や動機を持った者たちが加わることによって、結果的に、多岐、多方面に金光大神の信心が伝えられ、明治期の願主の広域化が起きたと考えます。

(2)布教史研究の視角について


 次に、布教史研究における事柄の見方について申します。布教の歴史は、大きく「布教する側」と「布教される側」に分けて見ることが出来ます。私の研究の場合は、「布教される側」に注目しています。それは、「布教」や「布教者」とその歴史を、人びとによって創出される、つまり、特定の文脈において作られ、変化する様相において捉えることを意図してのことであります。

 このような考えを持つようになった要因の一つに、近藤藤守師と高阪松之助師に関する伝承があります。

  近藤藤守師
 「人は天地の恵みに因りて生ずるものなれば、其の住める所の土地を見て人の性質の如何を知るを得べし」(今井藤正「見聞きのまま」『藤陰』第8号、明治41年)。
   
  高阪松之助師
 「…第一に注意する布教術は、駅の立ち売りの呼び声を聞いてよく研究せよ。それはその土地の民情、風俗を代表しているから」(金光教信越教区布教史資料室編『資料布教沿革概史』1994年、23頁)

 ここでは、「教え」をするにしても、その土地や人々の精神風土に通じていく必要性が説かれています。「信心を伝え、現す」という意識に立てば、一見、「端々のこと」と思えなくもありませんが、近藤、高阪両師は、「人情」や「風情」を度外視しては「信心」も伝わらない、人々には届かない、さらに言えば、所期の願いの成就が大事だからこそ、おろそかにしてはならない要点をこのように仰っているのだと、私は受けとめています。

 加えて、興味深い点として、このような人情、風情と信心の関係について語った伝承を、文献や資料であまり目にしないということであります。それは語られることが少なかったことを意味しているのではなく、「言わずもがな」と申しますか、かつては当たり前のこととして了解されていたから、伝承資料として残りにくかったのではないかと私は考えています。

 この伝承を通しては、信心が伝わり、広がっていく様相を、時代状況や土地柄の影響関係において考える道筋が浮かんできます。このような影響関係に注目することによって、布教者一人ひとりの取り組みを、「出来/不出来」という結果に比重がかかった観点によってではなく、それをも包み込んで、布教者と人びとの出合いからの経過(過程)全てを、信心の出来事として大きく捉えていくことができるのではないかと考えています。

(3)金光喜玉の信仰営為とその特徴


 これからは、この度の論文(児山真生「明治初期村落社会における出社の信仰営為とその意味
―磐梨郡鍛冶屋村・金光喜玉の事例に注目して―」紀要『金光教学』第50号、2010年)において取り上げた金光喜玉(かなみつ よしたま)という人物を事例に話を進めます。

 ところで、「金光喜玉」という人物、聞き覚えがないと言われる方が多いかと存じます。私もほんの少し前までは、そのような一人でありました。

 この金光喜玉師は、昭和28年刊行の御伝記『金光大神』(昭和44年に縮刷版刊行)に、「中井の金神」と呼ばれた「大森うめ」師の取次によって入信した一人として、その名前が記されています(縮刷版227頁)。また、『金光大神 総索引 註釈 人物誌 年表』(昭和30年)には、金光喜玉師について以下の人物紹介が掲載されています。

 岡山県赤磐郡万富村鍛冶屋(現・岡山市東区瀬戸町鍛冶屋)の人で、天保元年(1830)に生まれた。明治元、2年のころ、二男彌三郎の眼病及び歯痛のために、はじめて大森うめの取次を請い、後、金光大神の広前に月参りして信心に励み、「鍛冶屋の金神」とよばれて、その神徳が遠近にあらわれたが、官憲の取締りが厳しかったので、やむなく教籍を児島五流におくことになり、そのため、しだいに本教から遠ざかっていった。明治23年(1890)11月死去、61歳。(『金光大神 総索引 註釈 人物志 年表』金光教本部教庁、1955年、人物志24頁)。

 今日では、金光喜玉師の名前を、目にしたり、耳にすることは少のうございます。このように、時代が下がるにしたがって、段々と教内において、その名が伝えられにくくなる方々は、少なくありません。先の引用に登場する「大森うめ」師もそうした一人かと存じます。そして何より危惧するのは、お名前のことばかりではなく、その時、そこで表されていた信心の様相が、次第に薄らぎ、やがて存在した事実さえも忘れられていくことであります。それが私には、信心の世界が縮小していくことのように思われてなりません。

 ここで、金光喜玉師に関わって、写真を用いて、現在の様子等をご覧に入れます。

岡山市東区瀬戸町鍛冶屋(旧鍛冶屋村)

 上の写真は、現在の岡山市東区瀬戸町鍛冶屋(旧鍛冶屋村)の様子であります。写真の中の左に見える高架は、山陽自動車道で、位置は、瀬戸パーキングエリアの近くです。金光喜玉師の広前は、写真中央の奥、丁度、高架と山が接している地点の奥にございました。

 下の写真は、かつて金光喜玉師の広前が設けられていた建物の外観です。

金光喜玉師の広前が設けられていた建物の外観

 続いて、私が金光喜玉師への関心を強くした理由を、金光喜玉師の信仰略歴を示しながら申します。

【金光喜玉師の信仰略歴】

明治初頭大森うめの取次を受ける(信仰との出合い)。
明治6年金光大神広前初参拝
10月16日夜半、「金光大神の御姿、眼前に現れ給い…」。このことを大森うめに伝える。大森うめからは「御身は専心金光大神に事へ万民を救済せよとの御知らせなり」。この頃から、金光喜玉のもとに参拝者が集まり始める(居宅の広前化)。
明治7年金光大神から「光時」の名(神号授与の代替?)を与えられる。
明治8年区長から広前での活動停止を命ぜられる。
その後、「児島五流」との関係で布教資格を得る。
修験寺院・宝良院の住職に就く。
明治9年区長から管外退去を命ぜられる。
明治11年4月18日、金光大神広前に参拝。
僧籍取得後に参拝した金光喜玉を、金光大神は「広前歳書帳」に「光時」と記している。
明治23年11月8日、死去(宝良院住職)

 まず、明治11年の箇所を見て下さい。この年の4月18日、金光喜玉師は金光大神広前に参拝しています。金光喜玉師は、明治7年に金光大神から「光時」という名前を授かっています。その後、明治8年に布教困難な事態に直面します。具体的には、区長(この場合の「区長」とは、明治5年に制定された「大区小区制」下、「第24大区」〈赤坂郡・磐梨郡〉を管轄する者のこと)から、布教資格の無さ(無資格)を問題にされ、鍛冶屋広前の活動停止を命ぜられます。この事態は、児島五流(修験)の助力を得て、布教資格(教導職)を取得し、切り抜けます。この布教資格取得に伴って修験寺院の住職に就任しています。従いまして、明治11年4月18日に金光大神広前に参拝した際の金光喜玉師の社会的立場は、修験寺院の住職であります。

 この金光喜玉師のことを金光大神は、「広前歳書帳」に「光時」と記しておられます。私は、このことを「広前歳書帳」に見つけた時、驚きました。それは、今ほど申し上げましたように、色々な行きがかりがあったにせよ、金光喜玉師が明治11年に参拝した時には、僧籍を取得していました。言うなれば、「他宗」に属する身分であります。その金光喜玉師のことを、金光大神は以前に授けた名前(「光時」)のまま記している。では、どうして金光大神は、他宗に属する金光喜玉師を以前と同じ「光時」と記したのか、という疑問が生じました。つい宗派や教派のことを意識してお道の信心を考えがちな私にとっては、金光大神が見ておられた信心の世界とのギャップを感じた箇所であり、私自身が思ってきた「信心」というものを改めて考えさせられた箇所であります。この記述箇所を通して、一般に考えられるような「宗派性」にとらわれず、そのような考え方や物の見方を超えたところで参ってくる人びとと向き合い、また、大きく信心を求めて居られた金光大神の姿を見る思いがしました。

 次に、この度の研究の具体的中味に関わる点を申します。信仰略歴に示したように、金光喜玉師は、明治8、9年と2度にわたって信仰的受難を経験しています。そして、2度とも切り抜けています。この金光喜玉師の事例において興味深いのは、2度の信仰的受難に際し、どちらも金光喜玉師自身が事態打開に向けて積極的に動いていないことであります。この「積極的に動いていないこと」が、布教史研究から見た金光喜玉師のユニークさであります。

 とりわけ、明治9年の場合には、区長から「其方の社内には備中大谷金光大神の札を修め正面には大峯の三幅対を懸け而も神仏混交の行為に出で多くの愚民を迷わす」との理由によって、管外退去を命ぜられます。

 この命令に対する金光喜玉師の様子について、以下のように伝えられています。

官令如何ともすべからず、父(金光善玉師のこと)は涙を呑んで此地を引上ぐるの準備に着手せり。当時、父、余(次男・弥三郎氏のこと)に言ふ様「日蓮二人は鎌倉殿に打勝ち、日進上人は足利六代将軍に打勝ちたり。之れ皆大徳ありて妻子なき故也。今吾れには何等の徳なく加うるに妻子の繋累あり。万事窮す。残念ながら児島へ帰る外なからん」とて両眼に涙を浮べたり(「宝了院住職金光喜玉君の略歴」)。

 布教困難な事態に直面した布教者が、信念を固め、局面の打開を図ったとする話を色々な文献や資料に散見しますが、金光喜玉師の場合は、そうした対応振りと異なり、「今吾れには何等の徳なく…残念ながら児島へ帰る外なからん」とあるように、自らの信仰営為を断念する方向に傾いています。にもかかわらず、結果的には、信仰営為は続いて行きます。「では、なぜ、受難を切り抜けることが出来たのか?」という点に、研究の関心が向くことになりました。そして結論から申せば、その要因としては、金光喜玉師本人の意思よりも、彼に信仰営為を続けさせよう、困難な局面を切り抜けさせようとした村の有力者をはじめ、周囲の働きに負うところが大きいことがうかがえました。

 この「周囲の働き」を意識して、金光喜玉師が困難な局面を切り抜けた様相を整理するならば、まず、金光喜玉師が行っていたことと言えば、大森うめに教えられた「御身は専心金光大神に事へ万民を救済せよとの御知らせなり」の実践であります。このことが、彼の周囲の村落社会の側において大事なことと捉えられていた。したがって、金光喜玉師の信仰営為を継続させようとする動きが村落社会の側から起き、そしてその動きに支えられ、結果的に局面を切り抜けることになったと、このように考えることができると思います。そして私は、この歴史的様相を、人びとを救い助けようとする布教者の意思と、その布教者を人びとが支えようとする意思とが重なり合い、協働することによって成り立つ信心の世界の現れとして捉えました。

 さて、このように申してみて、私の胸中に浮かんでくるのは、「此方は、人が助かりさえすれば、それでよい」という、金光大神が佐藤範雄師に語ったご理解の言葉であります。この言葉は、「教団とは何か」を問う教団史研究にとっての命題であります。そして、色々な研究に取り組む中で、問い求めている言葉であります。この度、金光喜玉師に注目することを通じて、私が「此方は、人が助かりさえすれば、それでよい」について思ったことを申し、本日の話を終わりたいと思います。

 「此方は、人が助かりさえすれば、それでよい」。言葉としては、極めて簡潔明瞭であります。それでいて、金光大神の信心に対する気迫と申しますか、一途な信仰姿勢が凝縮されているようにも思われ、ゆるがせにし得ない言葉でもあります。このように受けとめながら、他方では、「生き甲斐」というような日常的に大事にされる言葉がかすんでしまう、孤高の境地のように思え、私のような俗っぽい者には張り合いが見出し難く、ゆえに物足りない言葉のように感じてもきました。けれども、先ほど申したような村落社会などの周囲を動かすことになった金光喜玉師の様相を通して見えてくるのは、「人が助かりさえすれば」と、この一点に心を込めていくことが、大きな信心の動きであり、さらには大きな信心の世界を生み出していく、その要点であるということ。その意味で、金光大神が言う「人が助かりさえすれば」とは、大きな信心の世界への入り口を教えて下さっているのだと、研究を通して、このように受けとめ直したようなことであります。
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