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| 平成19年教学講演会講演記録 | |
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| 岩崎繁之(教学研究所所員) | | |
先を楽しむ」ということ ―三つの暦がおりなすもの―
はじめになんと神というものはこういうものか、えらいものじゃのうと申すように、先を楽しみ。 (「覚帳」二五―二三) この一文は、明治十四年、教祖様の孫である桜丸様が亡くなられて後に、記された言葉であります。幼いものを亡くされた中で書かれたこの言葉は、力強くもあり、なにかはかないと申しましょうか、もの悲しさもあり、また、ほのかな暖かさを抱かせます。未来との断絶そのものといってもいいほどの「幼いものの死」。そして、そこで、表された「先を楽しみ」という言葉。それは、私には、解釈といいますか、分かることそのものを断念させるような迫力を感じさせるものです。そうとしても、このように表されたことが、教祖様のところでどのような響きとしてあったのか、そして、そこからどのような歩みを踏み出されたのか、このことは、ここから信心を歩む者として、避けられない問題だと思います。
この講演では、このようなことを考える、その始まりのところではありますが、教学として考えさせていただいたところをお話しします。
先日、紀要四七号に「新暦・旧暦・末暦があらわすもの ―三つの日付を付け分ける金光大神の世界感覚」と題する論文を発表させていただきました。
「覚帳」の旧明治六年十二月十日(七年一月二十七日)に、「生まれ変わり」を経た年齢が記され、新暦、旧暦とともに「月三十日」の暦である「末暦」を「三とおりにつけわけてみい」と神様から指示を受けた旨が書かれております。(明治旧六年[新七年]、「覚帳」一七―三二―一~二) 「末暦」について、教祖伝『金光大神』(二八四、二八五頁)では、「独自の宗教暦の着想によるもの」というように、三つの日付を付け分けた事実には触れているものの、これまで、その記され方や用いられ方など実態については不明な点が多いとされてきています。そもそも教祖様ご自身が、参拝者はもとより、ご家族の方にも末暦のことを話されたことすらないようであります。
日付、暦は、日常、普段の生活をつくる基のところにあるものであります。そのような暦が教祖様のところでは、三つあり、その三つで生活が作られていました。
そこで、教祖様が書かれた「覚帳」や「広前歳書帳」の日付の書かれた様子を辿っていきつつ、「新暦・旧暦・末暦」の三つの暦がどのようにあったのか、そして、それによって教祖様は、どのような日々を過ごしておられたのかを窺っていこうと思います。
このことは、教祖様が日々過ごしておられた日常の生活のリズムというか時間を探ることであり、また、ご理解や「覚書」「覚帳」には、「七日先」や「三年先」「五年先」「十年先」などなどございますが、そのような時間の捉え方にも関わってこようかと思います。
そして、さらには、教祖様が、お知らせ、神様の言葉をどのようにいただかれ、日々を生活されておられたのかというありようにも迫っていくことになればと考えています。
さて今回は、事例として二点を挙げさせていただきました。「広前歳書帳」に記された願主としての「金光大神」と、末暦の日付が強く意識されたことが窺える事例です。
これらの事例を中心に話を進めてまいりますが、その前に、まずイメージしていただきたいことがあります。それは、教祖様を、帳面類を書いた人(筆を持つ人)と想定していただきたいのです。つまり、御結界に座られ、参拝者と話を交わし、神様と交わっておられる様子。それに加えて、机に帳面類を置き、筆で言葉をしたためていく姿。このことを念頭に置きつつ、書かれた日付を辿っていくことで、日々の営みを窺い、その表された様子から、教祖様をより立体的に感じていきたいと思います。
一、願主「金光大神」と取り次ぐ金光大神 現在、各教会では、お取次に来られた信者さんの名前や願いを、御祈念帳に記し、御祈念の際には、ご神前に供えて願っておられると思います。このような営みは、教祖様に始まります。「広前歳書帳」と呼ばれる、教祖広前の御祈念帳は、明治二年から十三年までが現存(明治六年は欠本)しています。明治七年以降の御祈念帳には、「三通りに付け分けてみい」という神様の指示を実践している様子が窺えます。日々、参拝者を書き留めるはじめに、日付を付ける。この当たり前と思うところに、教祖様のところでは、三つの日付があるのです。日々営まれるこの行為によって、いつしか、そういう体裁になっていくというか身になっていったと思います。
私は、御祈念帳を最初から辿っていったのですが、そこで出合わされたのが、明治八年の御祈念帳の旧一月一日の記述です。筆記の様子から、他の参拝者同様、願主として金光大神の名が書かれています。そして、教祖様ご自身が「覚帳」明治六年のお知らせの如く「生まれ変わり」を経た姿(「金光三才」)で記されています。明治二年からある御祈念帳に、教祖様ご自身の記述が記されるのはこの時が初めてです。このことからは、この年の旧暦で表された正月一日を一年の始まりとされ、その日、教祖様は、広前に参拝され、お結界でお取り次ぎを願われた。そして、お結界の教祖様は、その願いを受けて御祈念帳にその旨を記されたと考えられます。そこには、取り次ぐ人、御結界にいらっしゃる人という救済者としての姿だけではなく、願主、願いを持つ人としての姿が窺われます。
翌明治九年になると、記述から旧暦ではなく、末暦の「一月一日」に願主として取り次がれたことが分かります。これまで改暦以降でも、教祖様は主に旧暦で生活されていたといわれてきていますが、少なくともこの明治九年の記述からは、年の始まりを末暦でおさえているのが分かります。また、「覚帳」でも、末暦の日付が他の年と比べて多く出て来るのがこの明治九年です。
翌十年は、新暦の「一月一日」が選ばれております。そして、御祈念帳が現存します明治十一年、十二年、十三年も新暦の「一月一日」に願主として記述があります。
新年の「一月一日」を巡るこの動きをどのように思われるでしょうか。「一月一日」「元日」について御理解として伝えられておりますものがいくつかございますが、年の初めということでも、教祖様は、神様のご神意を推し量るべく選ばれ、そして、一参拝者として、お取次を願い、また、その取り次がれた願いを御祈念帳に記されたのだと思います。 そこには、晩年にいたってなお、信心の基本姿勢として、信心の始まりへと向おうとしている信仰者金光大神の姿が立ち現れてきます。
二、「覚帳」に見る三つの暦世界 -「百日修行」と「末十二月一日」の事例から- ①「百日修行」 「覚帳」の19章21節(明治八年)には、百日修行を指示された日と、百日が過ぎて終了した旨が記されています。原典の記述からは、百日修行を開始する当初、新暦旧暦の日付で始まるのですが、終了した時点では、旧暦、末暦が記されているように、「百日」という期間を巡って、期間の捉え方を変えられた様子が窺えます。
先ほど申しました御祈念帳明治九年の記述とは前後しますが、この時期は、百日修行の真っ最中でありました。 百日修行については、その内容は定かではありませんが、事実何かが行われていたことがこの記述から窺えます。また、その期間中も、御祈念帳に記された記述からは、参拝者を取り次がれる教祖様の姿が見受けられます。この間も、日々、新暦、旧暦、末暦の順で三つの日付が記されていきます。 末暦という神様の暦で捉え直すことで、「百日修行」の信仰的意味を推し量って居られたようにも思われます。
②「末十二月一日」 「覚帳」の21章38節(明治十年)には、「新二十八日、旧二十四日、末十二月一日に当たり」と、新旧末暦の日付が記されております。末暦の日付の所には、「にあたり」とつけられています。この「十二月一日」という日ですが、金光真整先生の民俗学的な調べでは、大谷村では旧暦のこの日は、「オトツイタチ、或はオトノツイタチともいう。ボタモチ・オハギなど、何かかわったことをして神さまにあげ、内祝いをする。」という日でありました。長年、大谷村で過ごされた教祖様にとって、「十二月一日」と表される日は、特別な日であったことが窺われます。
このことからは、次のように考えてみることが出来るのではないでしょうか。神様からお知らせがあった、その日がいつかを記そうとすると、特別な日を表す「十二月一日」であった。しかも、それは、たまたまかどうかは分かりませんが末暦であった。その時のお知らせの内容が「月三十日」という末暦の世界を志向する内容であったことにも驚きます。そもそも日付は一年一年巡ってくるのですが、出来事と日付とがかかわりをもつことで、意味に相乗効果をもたらしたと考えられます。
まとめにかえて 以上、ごく一部ではありますが、教祖様が、日々行っておられた三つの暦(日付)をめぐって、考えてきたこと、思わされてきたことを述べて参りましたが、最後に、「まとめにかえて」、二点ほど述べて終わりにしたいと思います。 まず、「先を楽しむ」ということの中身としてある三つの日付で表される世界について申します。
今回、日々記されていく日付が、出来事があったその日を表す印のような存在から、日付そのものも例えば「元日」や年中行事のような特別な日、(そこには、金光大神祭り日も含まれてくると思いますが)というような「日」そのものが有してきた意味と繋がっていく展開があることがわかります。教祖様の場合、三つの日付が様々に絡み合いながら、お知らせとも結びつきながら、その内容が、より意味深く捉えられていったのではなかろうかと考えます。
それは、神様のお知らせをどのように頂こうか考えられ、日々、実践していく中で、神様と教祖様との関係の中で、自ずと織りなされていった世界ではないかと思います。
○最後に「先を楽しむ」に思いを寄せて さて、「先を楽しむ」ということに関連してつけ加えさせて頂きます。私には、百一才になる祖母がおります。「先を楽しめ」というのは、その祖母が食後訓の後に続けて唱える言葉です。私が生まれる前から体が弱く、もう三十年以上も危ないといわれる中で発された言葉であり、私にとって非常に思い入れの強い言葉です。
子供のころからの記憶ですが、当初は、律儀な唱え言葉として聞いていたように思います。それが、いつの頃からか、何か開かれた感を抱かされる響きになりました。その間、祖母は視力を失い、耳も聞こえなくなっていき、行動の範囲は狭くなりました。けれども、そのような日々の中にあって、御祈念の時間は長くなっていきました。
そしていまでは、声を出すのも大変なようですが、それでも食事の後は、手を合わせて、ごにょごにょいっています。さて、このような姿を見させて頂く中で、「先を楽しむ」というのは、当人にとってのというよりも次の世代、その次の世代へと続く深い祈りの言葉のようにも思われてきます。そしてそれは、どこか思いもかけぬ時、ところで現れてくる何かとでも申しましょうか、大きな世界との出会いを楽しむ人間の姿とも思わせて頂きます。
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