平成21年教学講演会講演記録

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平成21年教学講演会講演記録



佐藤道文(教学研究所所員)


今、金光大神の信心を求めて ―広前の様相を手がかりに―


 只今、ご紹介に与りました佐藤道文と申します。 私は、今年刊行されました、紀要『金光教学』第四九号に「金光大神広前の様相をめぐる一考察」と題する研究ノートを発表させていただきました。

 限られた時間の中ではありますが、この取り組みを紹介しつつ、今、ここから追究していきたいと思わされている内容について、今日は、お聴きいただきたいと思います。どうぞ宜しくお願いいたします。

 これから取り上げます内容には、物珍しさを感じるかもしれませんし、現代に生きるわれわれの信心には「馴染まない」と感じたり、あるいは、金光大神の信心の中では、それほど大切な内容ではないと感じられるかもしれませんが、今日は、「これはどういうことだろうか?」という点を具体的事例を示しながら、少しゆっくりお話したいと思います。

1 はじめに


 どなた様もよくご承知のように、今年は春以降、新型のインフルエンザが、つまり「はやり病」のことが、大きく取り上げられてきました。歴史を振り返ってみますと、明治12年に西日本一帯では、コレラが大流行し、多くの人が亡くなりました。この年の金光大神の「御祈念帳」にもコレラの祈願のことが記載されています。コレラと金光大神のお広前の関わりについて御調郡(みつきぐん)尾道町(現広島県尾道市)から訪れた吉田芳助さんの伝承資料を紹介します。

明治十二年の頃、虎列刺(コレラ)の始りの時、恐ろしくて一歩も他出することを得ず。張り紙を見ると身がすくんで了う程なりしを金光大神に申上げたるに、「はやり病に恐れて居ってどうならうにい。」とて笑ひ居られ、暫く御理解ありて御広前の左右の御幣の内、右手のを抜きて、下されたり。有難くて、気分すうっとしたり。(事八四九、吉田芳助)

 この伝えで注目したいのは、コレラに恐怖する吉田さんが、金光大神から「理解」を受けるとともに、広前に供えられていた幣を下げ渡されて「有難くて、気分すうっとした」ということです。ひとまず、そのように内容を理解します。これは、金光大神と参拝者である吉田さんとの間での信心をめぐるやりとりの様子です。

 この伝えについて、事柄を中心に流れを整理しますと、コレラに恐怖していた吉田さんが、金光大神の広前に参拝し、ご理解を聞いて、さらに「幣」を下げ渡されて、「有難くて、気分すうっとした」ということです。このことを更に吉田さんの思いに即して言えば、コレラへの恐怖から逃れることを金光大神にお願いしています。とはいえ、「幣」を下げ渡して貰うことをはじめから期待してはいなかったはずです。つまり、吉田さんにとって「幣」を渡されたことは予想外だったと言えます。加えて、吉田さんの伝えでは、「ご理解」の内容は伝えられていないことからも、「幣」を授けられたことが、彼にとって印象深い出来事であったことが分かります。

 また「幣」が印象深く思えるのは、吉田さんだけではありません。今日、信心をする私たちにとっても印象深い「ご理解」の一つではないでしょうか。 とかく、金光大神と言えば、参拝者に向かってもっぱら言葉で「ご理解」下さっていた姿を思い浮かべがちであります。その金光大神が、時には、参拝者に「幣」を下げておられたこと、そして何より、金光大神のお広前に「幣」があったということ。これらを、大きく言えば金光大神がご神勤されていたお広前とは、どうなっていたのか?という関心が湧いてきます。

 このようなことから研究への関心を高めていくことになったのですが、そもそも金光大神のお広前の様子については、当たり前と言うなら当たり前かもしれませんが、案外、知らなかったなぁと思われることも、少なくないように思います。 そこで、吉田さんの伝承を一つの間口として、これから、みなさんと共に、金光大神の広前へと目を向けてみたいと思います。

2 金光大神広前の様相


 まず、金光大神の広前の様相について、伝えられている事柄を一覧で示します。

一、お広前の天井(次の間のことならむ)隙間なく一杯に大小の提灯が吊り下げてあったこと。一、お広前の唐紙(北側のものならむ)の処に白布にて造られたる乳(二個並ぶ)の形にした絵馬  が沢山立てかけ置かれてあったこと。一、信者が金光大神を拝んで居る姿を画き現したる絵馬も同様に沢山立て掛け、又は吊り下げてあ  ったこと。またその辺に小さき鳥居もあったこと―これはお庭の壁の処にもあったこと。一、布切にて造られたる小さき猿を連ねたるものが、幾筋となくお広前の唐紙(北側)の処に吊し  てあったこと。一、お庭の壁ぎわ(東側)に沢山の大小幟さし立ててあったこと。(事六六一、中務とよ)


 では、金光大神の広前に参拝した人々は、どのような様子を目にしていたのか。そこで、次の写真(金光図書館蔵)をご覧下さい。

「立教聖場」の写真

 左の「立教聖場」の写真は、大正三年、還暦を迎えた近藤藤守が「金光大神の神の御神徳を永遠に慕いまつる便と致したい。この聖場を如実に見せて求信者の信念を進むる上の資と致したい」との願いから建築したものです(『金光大神とともに』金光教難波教会、一九八七年、四八~五〇頁参照)。

森政禎治郎が奉納したとされる絵馬

 右の写真は、森政禎治郎が奉納したとされる絵馬です。

 さて、今日は、金光大神の広前にあった多くの供え物の中の一つ、線香に注目して話を進めたいと思います。

明治一六年八月一二日初参拝した有田儀助は、「(吉本)吉兵衛と二人にて参り、お礼申上げたるに、『信心しなさい、信心しなさい。』と仰せらたり。そして御神酒を下されたり。線香を立てて拝せられたり」(言八二、有田儀助)

 明治16年に参拝した有田儀助師は、金光大神が線香を立てて拝していたことを伝えています。今日では線香を神前に供えてご祈念するということは聞きません。けれども、金光大神は線香を立てていました。金光大神が線香を供えていたという伝承資料は、他にも幾つかあります。その中の一つ、佐藤範雄師のものがあります。佐藤師は、神前で線香を焚く金光大神の姿を訝しみ、「金光様、神様に線香をおたきなされるのはいかがでありましょうか」と尋ねています。これに対して金光大神は、

「長者の万灯、貧者の一灯ということがあろう。その貧者の一灯も奉られぬ者もあろう。神は灯明でも線香でも、何でもかまわぬ。一本の線香を奉られぬ者は、一本を半分に折りて奉りても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香も奉られぬ者は、切り火をして供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香の灰でもおかげを受ける者があるぞ」(理Ⅲ内伝2―2)

と答えたとあります。

 このように答えておられる金光大神には、一般的に不浄を祓い、仏を供養するものと理解されている線香に対する認識の有無とは別個に、参拝者が思いを込めて供えた物をすべからく良しとする姿勢が現れています。このことは、「絵馬」「幟」「提灯」「千匹猿」「鳥居」など、種々の奉納物についても同じであったと考えられます。

 お広前には線香が供えられており、金光大神は線香を焚いて神に祈っていた。私は、「だから皆様も今日からお広前で線香を焚きましょう」ということが言いたいのではありません。むしろ、真心による参拝者の供え物はすべからく良しとする、金光大神の信心に注目したいと思います。とかく、「線香」などと言えば、それは信心にとっての良し悪し、あるいは、有りか無しかで見たり考えたりしがちです。ここでは、そのような良い/悪いの話としてではなく、金光大神がそのようになさっておられたということの中に、信心の大切な意味を感じ取りたいという思いと共に、何より、当時の参拝者はそこのところを感じ取っていたという主張です。広前とは、神を祭祀する金光大神と、人々が持ち込む願いとの両方によって形作られていたと考えられます。

 今日では、「覚書」「覚帳」をはじめ、「ご理解」が収録された『金光教教典』から教えを頂くことができます。金光大神の広前の様相を目で見て、臭いを嗅ぎ、幣の手触り、み教えを聴く、そのように思いを巡らせてみますと、活字を見て思うこととは違う、み教えの「響き方」があるように思います。そして、その「響き」というのは、今、申したような、言葉としては直接説明されていない行為や様相と共にあったと考えます。勿論、このように言うことができるのも今日、『教典』があるからであります。『教典』で教えを知るということに加えて、五感を通して信心は体感されるものとしてあったということを申して、次に進みたいと思います。

3 「祈念詞」に現れる金光大神の信心


 これまで申し述べてきましたように、金光大神の広前は、金光大神の祈りはもとより、参拝者の様々な願いや思いとともにあったことが分かります。そこで、もう少し踏み込んで、参拝者の思いや願いを、金光大神がどのように受け止め、祈っていたのかについて、大喜田喜三郎師が伝えている「祈念詞」に注目して述べてみたいと思います。ここでは大きく二つの点に絞ってお話ししたいと思います。まず、「祈念詞」をご覧下さい。

金光大神、天地金乃神、不残金神様、時の中夭(思わぬ災難)災難、盗難、火難、悪事災難お逃しくだされ。氏子の年回りは、入り厄、はね厄、厄晴らしくだされ。時候のあたり、疲れ、肩癖、かぜ、はやり厄(流行病)病難は、大厄は小厄におまつりかえくだされ、七難八苦の憂いをお逃しくだされ。神々の無礼粗末、行き合い(祟り)見参(同上)故障、人のほのお(恨み)ほむら(同上)恨み、生き霊死霊の訪ねがござりましょうとも、あなた(神)のお手続にて精霊はお道立てをおやりくだされあなたのご方角に向かい、ご無礼お粗末ござりましょうとも、年の御回り、ご眷族、月、日、時、刻限、昼夜の御回りに向かいて、ご無礼お粗末ござりましょうとも、日々ご方角を改めてご信心つかまつる氏子にござりましては、いかなるご無礼お粗末がござりましょうとも、おさし許しくだされ。(理Ⅰ大喜田喜三郎6―2~4)


 金光大神は「この文を、金光が朝晩お願い申しておる。亥の年、この文のとおりお願いせよ。また、信者へも教えよ」と言ってお書き下げくだされた御文であると大喜田師は伝えています。

 まず、一点目は、金光大神の信心の特徴と言える「祈念詞」の願い方についてです。「生霊死霊」「祟り」「厄」「方角」「憑きもの」など、人間のあり方に起因するものではない、突如襲いかかるような外からやってくる禍の源に対して、お逃し、厄晴らし、お道立て、お許しを「~くだされ」という向き方での願いになっていることです。 これが、どう特徴的かということを、修験道との比較を例に申しますと、修験者は、神と人間とを繋ぐばかりではなく、人間にとって禍がもたらされる源を祓う、落とす、調伏する、封じ込めるなどの修法によって、切り離そうとします。それに対して金光大神の「祈念詞」の願いの向き方は、禍の源を切り離そうとするのではなく、抱え込むようにしてお道立てを願う、ここに金光大神の信心の特徴が表れています。

 そして二点目は、「あなた」という神への呼びかけについてです。「祈念詞」には「あなた」という神への呼びかけが二箇所あります。これは、冒頭の「金光大神、天地金乃神、不残金神様」、即ち祈願を向ける対象神を指していると考えられます。「あなたのお手続きにて~お道立てをおやりくだされ」の「あなた」には、救済に導く神性(助ける神)が、一方、「あなたの方位に向かい~おさし許しくだされ」の「あなた」には、方位を司る神性(障る神)が窺えます。この両者は民俗的な信仰世界では相反する神性です。と申しますのは、先ほども例に挙げました修験道では、守護する神性の力によって、禍の源となる障る神を祓う、落とす、調伏する、封じ込める、などの修法によって切り離そうとします。それが、金光大神の「祈念詞」には並存しており、双方へ祈願していると言えます。では、このことは、どのように考えられるのか?

 私は、この一般的に相反すると考えられている両方の神が並存していること、そのことが非常に重要な金光大神の信心の特徴だと考えています。このことを最後に述べて、本日の話を終わりにします。

4 おわりにかえて


 まず、今日、お話しした内容を、ひとまず、「葛藤」という言葉を用いて整理してみたいと思います。「葛藤」といえば誰しも「無いに越したことはない」「できるだけ抱え込みたくない」ものでありましょう。私たちの日常生活では「葛藤」を感じる場面が多々あります。

 私の場合、例えばこれまで在籍教会でお結界のご用を頂いています時に、「納屋の改修、山の木を切る、お墓を移転するなどの時に、神様に障りませんように、ご無礼になりませんようにお願いして下さい」というお届けを受けたことがあります。このような時に、天地金乃神様を頂いている金光様のご信心は、日柄方角に障って叱られるような神様ではありませんという主張が私の頭をよぎります。

 信心していても、もっと言えば信心しているからこそ「葛藤」が生じることも多くございます。だから、金光大神の信心のあり方に目を向けていくことが大切だと考えています。

 では、金光大神はどうであったかと言うと、私はやっぱり金光大神も色々「葛藤」なさることはあったと思います。金光大神は、生じてしまった「葛藤」を自らの都合や計らいによって解消しようとせずに、祈りに変えている様子に注目したいということであります。先ほどの「祈念詞」に即して言えば、日柄方角をはじめ、生き霊死霊、恨み、嫉み、行き合い、見参など、人々が避けようとすることを、積極的に祈ることで向き合っておられます。その結果、どうなったかは、みなさんご存じの通りであります。

 私は、金光大神の通りとはいきませんが、この「葛藤」への注目は、今を生きる私たちにとっての大きなヒントになると思います。つまり、金光大神が「葛藤」をテコに、信心を大きく展開されていくように、私たちにとっても信心を大きくする手がかりが、目の前にあると言えます。その第一歩目として、私たちにとって大事なことは「葛藤を自分考えで勝手に解決しようとしない」つまり、「葛藤を無かったことにしたり、取り除いてしまえるものにしてしまうのではなく、葛藤をチャンスとして積極的にみる」こと。このことによって、私たちも金光大神の信心に近づいていけるのではないかと考えています。

 このような教学研究の取り組みは、まだまだはじまったばかりです。ここから追究したいと考えていることについては、また次の機会を楽しみに、今日は、ここまでとさせていただきます。本日は、有り難うございました。

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