平成21年教学講演会講演記録

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平成21年教学講演会講演記録



高阪有人(教学研究所所員)


信心の成り立ちに向けられる震災体験


はじめに


 まず、お話させていただく前に、調査の概要について簡単に紹介いたします。この度の取り組みである、阪神淡路大震災の体験の聞き取り調査、インタビューですが、それは、神戸の桜口教会にご協力をいただいて実現してきました。その桜口教会というのは、灘区、JRの駅でいえば六甲道というところにあります。震災時も、同じところにありました。

 その六甲道という場所は、震災直後の当時、マスコミ関係者が「震災の悲惨さを見たかったら、長田へ行け。震災の怖さを見たかったら六甲道へ来い」と言われていたそうです。長田区といえば、震災による火事で、多くの犠牲者を出したところです。いっぽう、六甲道は幸い、火は出なかったのですが、そのぶん地震の破壊の力、その痕跡があらわになる場所だったのです。

 そのような、まさに震災直下の地で、被災の体験をされた教会の近所に住むご信者さんの齊木さん、永峯さん、太田さんに体験を語っていただいてきました。皆さん女性で、現在、年齢は80代、70代、60代です。

 そこで、お話を聞くにあたって、準備としていろいろと、一般の新聞、金光新聞、また、出版された書籍、写真集等を下調べして、改めて震災という出来事を見させていただくなかで、これから、実際にその時、その場で体験された方々を自分は前にすると考えると、尻込みしてしまうのです。私自身、震災のときは十四才で、滋賀県におりました。震度5の揺れも経験しているのですが、被災するということは周りを見渡してもありませんでした。そういうこともあって、実際に被災された方の、当時、また、これまでの苦悩を聞くといっても、聞いたことにならないのではないかという思いがありました。

 また、お話をいただいたのは、震災において受けたおかげの話だったのですが、それを信心による震災への認識という形で聞くことが、研究者が震災体験者の信心を評価・裁定することにも通じることにも気づかされます。 このように体験談を聞くことは、聞くこと自体やそれを理解しえるとすることの問題、体験の有無による、断絶感を生じさせるものでした。

 しかし、断絶感を抱くこととなった体験談は、同時に、体験への思いに、言葉を追いつかせるように力動的なものであり、その体験への実感に私自身圧倒されるものでありました。そして、その断絶感が契機となって、その特徴的な語り口に、震災体験への認識を問うのではなく、震災体験という出来事がどのように経験されているのか、という経験のあり方を問い、そこで実感されてくる信心を見ることができるのではないかという関心が浮かんでくることになったのでした。つまり、震災を語ることを通じて、信心が実感へと届けられ、震災体験の現実が形づくられるあり方を信心の営まれる姿として捉えていくという課題が調査から問われていく中で浮かんできたのでした。

1 体験談にみる震災体験のあり方


 それでは、まず永峯さんの、震災体験談を紹介していきたいと思います。

私もね普段ね、お当番がありましてね、ここのお教会に。10時に先唱いうのがありましてね。10時が来たらね、先生がおられても、おられなくっても、誰もいらっしゃらなくても一人でね、先唱せないけませんねん。

 で、それが私勤めてましてね、お勤めしてない人はこられるけれど、勤めてるからその時間を割くのにね一時間先ね、自分の仕事をさしてもらってね、始まる前に。それを時間作って十時の時間を空けてもらってね。で、この下におったんですけどね。阪神の車庫におりまして。それから10時がくると思ってダーッと時計見もってトット、トット走って来てね。ほいですぐここで事務服脱いでね。

 ここでお先唱さしてもらって人がいらっしゃらない。先生が用事で、教務所の御用されてましたからね。「頼みます」言うていっても、一人でね。その時は「なんで私こんな一人でするんかな、なんでこんなんしたっても、おかげってどこにあるんかな」思いながら、なんとも思わんと不審に、「おかげって何かあるんかな、なんでこんなことかな」と思いながら、先唱さしてもらってた時にそれから後で、やっぱりそういうことが起きたときにはね。

 私とこの近所みんな、もう埋まったんですけどね、亡くなった人もようけいるんですよ。だけど私はその時に、「あ、これがおかげやってんね、普段こう、なんでか訳が分からんと私はこんな信心させてもろて、どんなおかげがあるんやろ」思いながらさしてもらったことが、今ね現れて、「神さんに助けてもろたんこれやな」と思てね。けがひとつせずにね、ずっと座ってたんです。

 そしたら4時間半なってから人がね、声かけてくれて。それから小さい穴から出ていったんですけどね。やっぱりそのときにはね、「ああ、金光様、有難うございました」というて、口から、心から、全身出ました。

  この永峯さんのお話を少しまとめますと、
  • 桜口教会の先代教会長が教務センターに御用に出られることになり始まった先唱当番
  • 先唱当番と信心への思い 「何で私一人がせなあかんのやろ。先唱しておかげがあるんやろか」
  • 震災で4時間半の生き埋め・「あ、これがおかげやってんね」「神さんに助けてもろたんこれやな」「金光様ありがとうございます!」という思い
というものでした。

 これらはいっけん、御祈念によって助けられたおかげの話ですが、さきほど、力動的な語り口と申しましたが、このことを話す永峯さんは勢い込んで、そのよろこびに今一度包まれているかのように話されました。 

 この話を言葉の意味と内容から見れば、命を助けられたという話です。これを聞いたときは、震災の話とはすこし食い違うようにも思ったのですが、語り口に注目して聞くことで、見えてきたのは、御祈念の話を通して語られた、信心への思いを背景にしながら、震災を通じての信心への気づき、つまり、自分がわからないながらも歩んできた信心の意味と出会ったよろこびが語られていたということであり、そのようにして「おかげ」から構え直されて体験談が語られていたということです。

 このように、語ることで震災体験の現実が今一度、経験され、その現実が創り出されていく。そこに不可分に関わる「おかげ」という言葉、実感されてくる信心の働きを語り口に注目して、体験談を聞くことで受けとることになったのです。 この永峯さんの話に、続いて太田さん、齊木さんも話し出されます。それは永峯さんの体験談が呼び水になっていたようです。なぜ呼び水かというと、それぞれに、当然ですが体験の内容は違います。でも、うなづき、うなづき、深く共感しながら、話されていったのです。その共感は体験事実が同じということではなく、語りのあり方に文脈をもっていたのでした。

 これら語られた体験談のあり方、お三方の側からいえば共感の文脈ということになるのでしょうが、それを述べてみると、信心から震災を語るのではない、言い換えれば、震災・苦難との格闘・克服としての体験談ではない。つまり、震災は過去の過ぎ去った出来事ではなく、それへの認識を語りうるものではない。だからこそ、いまも「痛み」を伴う体験であることにまず、気付かされます。

 そして、体験談は、体験の事実が説明されてもいるのですが、それは体験を言い当てていくのではなく、いかに語りうるかということがまずもってある。だからこそ、震災の体験を「おかげ」からいかに語るかは、震災のみを切り取るのではなく、自分のこれまでや、いまをも組み替え、その体験が経験され直し、「おかげ」が反復想起されていく。それは、震災体験からその現実が創られることにも通じていることでしょう。

 事柄として聞けば、悲惨な事実や苦しい現実が目の前で語られたことになりますが、それが「おかげ」の意味で語られる時、心に刻まれた感情の傷つきの程度を推し量り、それを支えた信心を見ていくような目的意識をもって受けとめるよりも、むしろその過酷な現実にふれ合いながら生きる意味を創り出す、語りを生み出すことに関わる信心の創造的なあり方に関心をいだかされます。 

2 日常の眼差しに関わる震災体験


 これまでお話ししたような体験談に見られる経験のあり方は、日常の出来事への眼差しにも関わっていることを窺うことになりました。

 まず、齊木さんのアパート経営での話です。

 齊木さんは、震災で亡くされた義母のアパート経営を受け継ぐことになったのですが、ある時、「やーさん」と言うほどの乱暴な人がそのアパートに転がりこんできました。それは、もとから居る住人の息子だったのですが、そのような人が住み着くようになり、夜中けんかしたり、ぶっそうな人が、その息子を訪ねてきて騒いだりと問題が起こってくる。そこで、他の住人にも対応を迫られ、板挟みになる齊木さん夫婦でした。そこで、対応しきれず弁護士をたてるのですが、逆に齊木さん夫婦を脅してくるようなことだったのです。

 それを嶋田先生の「相手の立ち行き」を願うということ、それはどういうことなのかという取次をいただいて、すべて好転していったと振り返り、

「ひとが変わったようになってもらってますので。それもね(おかげだ)」
「どっかで私は守ってもらってるという確信があると思うんですよね」

と振り返り、語る時には出来事に「おかげ」が見いだされ、そこから構え直されたとき「相手の立ち行き」ということが実感されていく。また、そのことは、神や御霊の働きへの実感の契機ともされていったのです。

  また、この話は、永峯さんの交通事故の話も呼び寄せっていきました。そこで語られたお話を要約すると、
  • 永峯さん夫婦と信者仲間が乗る車がぶつけられる(保険会社も認めるところ)
  • 相手はなかなか認めない
  • 「事故というのはどっちが悪いということもない」
  • 「相手の立ち行き」
  • 「皆に怪我一つなかったことがおかげ」
  • 「自分のことばっかり考えてたらもったいないな」 
  • 「信心してなかったら、そんなこと思いませんわ」
というものでした。

 「おかげ」からこの事故という出来事に意味があたえられ、そう思えることに信心の働きが感じとられている。その信心の意義に永峯さん自身、出会い直しているかのようなのです。 お二人とも、そのように思えるきっかけに震災の体験を思い起こし、このような不断に自己を形成していくあり方、そのことを通じて「信心ならでは」のこととして、物事の意味へ積極的に出会い直していく構えを示し、そこに日常の出来事への意味づけに自己の認識に収まりきらない震災という出来事との直面の体験が関わっていることを窺うことになりました。

3 「我欲」と語ること(太田さん)


 これまで、「おかげ」から体験が構え直されていった様相を窺ってきましたが、太田さんが「我欲」として自身を振り返られた場面がありました。ここではその場面を見ていきたいと思います。

 太田さんの言う「我欲」なのですが、それは、テント一枚で外と隔てた震災直後の寒さ、梅雨の時期の暑さや雨が染みこんでくるといった過酷な生活環境、また、一つのテントを二世帯で使う共同生活のストレス、また、炊きだしの用意やテントの補修管理といったテント村という共同作業が当時、そこから通っていた仕事のため十分に参加出来ないといった共同作業と仕事との両立、そこでの葛藤という状況があって、当時の思いを「ぎりぎり」、「こんな生活、早く抜けんと」という限界のテント生活があった。そこで、震災後の当初、「教会周辺で」という住宅の願いを、どこでもいいからすぐに住宅を願い、お届けし、「いまが信心の見せ所」「当初の願いを」と取り次がれ、その言葉を受け入れて、すぐ、教会の近所に住宅のお陰を受けられるのですが、その「どこでもいいから」と願ったことを「まあ、いわば我欲でしょうね。」「自分中心の考え」とおっしゃっていたのです。

 それは、自身の願いを我欲とし問題にして、当時の自分が振り返られ、そうでしかなかった自分と向き合われていくのですが、それと同時に、そのように言わしめる「いま」の実感(これを別の所で「平穏無事」とおっしゃるのですが、平穏無事ないまへの感謝)へ向けられる言葉でもあったのです。 このように「我欲」という言葉がつかわれるのは、自己との向き合いを促しながら同時に、これまで見てきた「おかげ」という言葉と同様、その言葉で語ることでリアルになる体験を重視してのことであり、「相手の立ち行き」といった境地に自己を押し開いていく働きを導くようにして使われていたのです。

さいごに


 最後にですが、これまで見てきたことは、震災体験当時の客観的な記述ではありません。「おかげ」や「我欲」という言葉もその指示内容というよりも、その言葉を使うことで生じている作用面への注目でもあり、現在における震災体験への実感が与えられてくる構造についてでした。そこで、実感される体験の意味は、自分から震災への意味づけを与えていくというより、いかにあの体験を語るかというなかで、震災から問わしめられて、与えられてくる意味であり、さらには、そのなかで自分というものも形づくられていく様相ともいえるものでした。 そこでは、Ⅱの「日常への眼差し」からみたように、様々な出来事と自分というものの関わりのあり方が反転し、その契機としての震災がありました。そこで語られた言葉は、そのような世界と主体との関係構造に中で発せられているといえましょう。

 このことへの気づきは、震災体験談から教義論を展望させることにもなっています。というのも、今回、お話を聞かせて頂いたお三方の、いまここに生きることへの実感を創り出していった信心の語りから、人間の生の実感の喪失・現実へのリアリティーをいかに取り戻すかという現代的な問題を切り開いていくことへ向けて、震災体験談を展開できるのでは、とも考えさせられるのです。今、私たちに届けられてきている信心の言葉というのも、このような関係構造にあるものとして捉え、教義という規定性が抑圧へ向かうのではなく、人間の生の実感へ導き、現実との関係の結び直し、世界の開けへの言葉として捉えていく。そのような教義理解を展開していく可能性を震災体験談から与えられた今後の課題として思わされています。

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