平成17年教学講演会講演記録

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平成17年教学講演会講演記録



高橋昌之(教学研究所所員)


金光大神の死後を生きる


はじめに


  金光大神が帰幽して百二十年余りを経た今日、教団刊行の新たな「教祖伝」も刊行されるなど、金光大神の生涯やその教えについて、知識としていつでも触れ得る環境にあると言えます。そしてそれらをもとに、金光大神の生き様を信奉者の手本として如何に教義化するか、あるいは金光大神の説いた教えを、社会の諸問題を解決すべくどう現代化することが出来るか、といった手だてを究明することが求められています。

 研究所に入所した当時、私はごく普通に「教祖」という言葉を使い、その取次のあり方について興味を持っていました。しかし「教祖」という言葉を使うわりには、金光大神の書いた「覚書」「覚帳」の世界は限りなく遠く感じるし、正直に言えば、「教祖」その人にはほとんど興味が湧きませんでした。にもかかわらず、「教祖」は存在していたに決まっており、その「教祖」を正しく理解しなければならないと考えていました。

 しかしそのころ、「教祖は本当にいたのか」と頻りに問いかけられることがありました。なるほど幕末の大谷の地に赤沢文治という人物が生きていたことは、庄屋の記録や戸籍類など公的な資料を見るまでもなく間違いのないことでしょう。そして文治が、家族の死や自身の病など人生の苦難を通して神と出会い、後には、難儀を抱えて助かりを願う多くの人々が、文治のもとを訪れたということも、彼らの残した伝承やその後の生き方の中に見ることが出来ます。しかし文治が「教祖」となるのは、自ずと別の問題であるし、自分にとって「教祖」とは何なのか、ということから改めて問題にしなければならないと思わされるようになりました。金光大神を、自分自身の生にとって意味ある存在として見出したときに、「教祖」と呼べるのではないかと思わされました。

 ここまで自分の経験を話してきましたが、時間的、空間的にも遠く離れているにも関わらず、知ったように語ってしまうことで、「教祖」を見出すことの喜びや、その事が生活にもたらす力などが削がれているのが現状ではないでしょうか。「教祖」の信心を伝える、現すということにばかり重点が置かれますが、その前に、「教祖」がリアリティをもって感じられなければ、結局は文字になって現された事蹟や教えを切り売りすることに終始する気がするのです。今回、紀要45号に「金光大神の死と『教祖』の発見」という論文を書かせていただきましたが、この点がまず研究を始めるきっかけになりました。

 それからもう一点、この研究を始めるにあたって原動力となっていたのは、身近な人の死をどう受け止めるか、という問題でした。これも個人的な経験が元になっているのですが、私が中学生の時に一つ年上の従兄弟が交通事故に遭うという出来事がありました。知らせを受けて病院に駆け付けると、ついこの間まで元気に顔を合わせていた従兄弟が意識不明でベッドに横たわっており、やがて脳死に至って、生命維持装置を外されて亡くなりました。目の前に寝かされている従兄弟は、体に触るとまだ暖かく、彼が亡くなったということは頭でわかっていても、感情では理解できないことでした。この感覚は、人の死に出合った原体験として自分の中にあります。また、従兄弟の家族を見ていると、当人以外にはわかり得ないものでしょうが、時間の経過によって癒される面が有る一方で、生きている限り忘れられない痛みや、子供との断絶感があることを感じさせられます。従兄弟の家族の姿に接し、また自分自身の経験から、人の死を受け止めるということがどのようなことなのか考えるようになりました。

 こうしたことから、金光大神の死に出会った人の経験、そこで見出した金光大神の意味ということについて研究的に追求しようと思うようになりました。なおこの講演では、人々が金光大神を自らの生にとって意味のある存在として見出したときの呼び名として、「教祖」という言葉を考えたいと思います。以下、研究を通じて考察した内容をもとにお話しします。

 1、金光大神の死


 明治十六年の十月十日に金光大神は七十歳の生涯を終えましたが、佐藤範雄先生のように、死後を見越して教えを聞き書きしていた人もいた一方、その死をなかなか信じようとしなかった人もありました。 例えば、秋山米造先生や和田安兵衛先生などは、金光大神の死を夢で知らされたといいますが、その事を聞かされた父親の秋山甚吉氏や、二代白神新一郎先生は、ともに金光大神の死を信じようとしなかったと伝えられています。彼らにしても、何れは金光大神の身に死が訪れることは分かっていても、自らの生にとって欠くことの出来ない存在であるが故に、容易に金光大神と死とが結びつかなかったものと思われます。 では、金光大神が亡くなった後の大谷の広前は、どのような状況に置かれていたのでしょうか。五十日祭までは、藤井駒次郎と藤井恒治郎が勤め、その後は、周知の通り金光大神の五男の宅吉様(金光四神)が勤めることとなったのですが、当時の雰囲気が次のように伝えられています。

御裁伝
教祖の処にまいり、御陰を頂き、教祖の教を頂いて帰られると同時に、教祖と同じ様に御裁伝を下げられた人が、(山口、広島、岡山県では児島)相当有った。処がこれが永続きせず、後嗣者ができなかった。教祖御神上りの時、四神様はこれを頂いて居られなかった。それで、「自分の方が正しい」と云った人がある。自分の方が間違っていると、正しい四神様の方がまちがったように思へる。(「金光国開氏聞き書」奉修所 二九六)

 これは、あくまでも伝えであり、事実がこの通りであったかどうかは問題になりませんが、こうしたことが真実味を持って語られていたということは、裏を返せば、一時的ではあれ広前に参拝する人が動揺し、確かなものを求めていたことが現れていると言えます。例えば、明治十三年から金光大神のもとへ参拝していた土岐周治郎先生は、ある日金光大神の死を知らずに参拝したところ、結界に宅吉様が座っていたため、力落ちをする思いがしたといいます。それは金光大神と比べて宅吉様には品格が感じられず、金光大神を拝むときのような気持ちになれないというものでした。交代した当時の宅吉様は三十歳の若さで、神勤を経験したこともなかったことから、参拝者が金光大神と比べて心許なく感じるのは、無理のないことでしょう。参拝者はそれまで当たり前のように金光大神がいた環境から引き離され、自らの信仰の拠り所を問われました。そして、先にあげた資料にあるように、宅吉様にたいして不信感を抱く場合があったと伝えられるなど、混沌とした状況にあったと言えるのです。

 2、「教祖」の発見


 そうした混沌とした状況にあって、自らにとっての金光大神の意味を見出していく人もありました。その一例として、湯川成一先生が教義講究所に入っていたときに聞いたという話を紹介したいと思います。永年婦人病を患っていた「或る婦人」が明治十六年に金光大神のもとに参拝し、病気が治るように願ったところ、金光大神から「親が死んだら助かります」といわれました。しかし彼女は、すでに両親を亡くしていたため、不審に思いその事を告げると、金光大神は「先で判ります」と答えたといいます。婦人はその言葉の意味を計りかねたまま帰途につきましたが、その後、身体がよくなったため、次の年に大谷へお礼参拝したものの、そこには金光大神の姿はなく、かわりに息子の宅吉様が座っていました。そこでその婦人は金光大神のことを尋ねたところ、昨年の十月十日に亡くなったことを知らされ、その時彼女は「親が死んだら助かります」との金光大神の言葉を、次のように承服させられたということです。

私は、親に早く死に別れ、ずっと淋しく暮らして来て、私程、不仕合わせなものはないと、永年思い通して来た。しかるに、金光様は、この私を、親として抱いて下さっていたのであるなア。 (『朝の教話1』金光教本部教庁、昭和32年、24~25頁)

 この婦人はこのあと金光大神の奥津城(墓地)に向かい、助けられたことや、親として立ち、子として抱いてもらっていた事へのお礼をしつつ、再びこの世において会うことの出来ない淋しさが身に迫り、悲喜交々の思いだったといいます。この「或る婦人」は、金光大神が語る「親」という言葉の意味を、当初は自分の実の親のこととして聞いていました。しかし、金光大神が亡くなって、「親」とは金光大神その人であったと気づかされたというのです。金光大神が、大勢の参拝者の一人としてではなく、他ならぬ自分のために祈り通していたことへの気付きであり、「親」という唯一無二の関係において金光大神の言葉や思いを捉え返しています。ここには人間同士の利害関係を超えて、たとえこちらが「親」と思わないとしても、無条件に自分を受け入れていた金光大神という存在への驚きや勿体なさが相まって表されています。「或る婦人」は、金光大神のもとには自分を含めて大勢の参拝者が訪れるが、金光大神はその一人一人をじっと座って待ち続けていたことに気付かされたのであり、それが彼女にとっての「教祖」であったと言えます。

 こうした気付きは、既に葬儀の時にも見られました。

 金光大神の葬儀では、修祓、発葬祭の後、柩を乗せた輿が葬列をなして木綿崎山を登って、現在の金乃神社本殿西南隅の辺りに運ばれ、そこで葬場祭が仕えられました。ところがこの葬列が山道の途中で止まり、遅れて駆けつけた金光梅次郎夫妻が到着したと同時に葬列が動き始めたことから、居合わせた者の間で、金光大神が夫妻を待っていたという感慨を共有したとの伝えがあります。

児島林(現倉敷市林)、金光梅次郎氏夫婦連、御神伝により馳付けしが(*実際には古川忠三郎から葉書で通知された―引用者)、既に御発葬。(今の)大橋金作裏にて御行列止りて進まず。其時に大新田の坂道の所へ来れり。会葬者中、同氏を知れる人々、「ああ、梅さが来居る。」と言合えり。両人息せき切馳付、御棺の前地に俯し、暫時啼泣せり。会葬者一同、其状を見て号泣せり。夫れより葬列徐々進行す。御行列の停止は全く梅次郎氏を待合されしものと言う。(『資料 金光大神事蹟集』八一九 藤井光右衛門)

 このとき、息を切らせ足をもつらせながら駆けつけてきた老夫婦の姿は、生前の金光大神のもとに救いを求めた多くの参拝者の姿そのものであり、金光夫妻の到着を待っていたというのは、金光大神を知る者にとって十分に納得のいくことであったと考えられます。彼ら自身も、難儀を抱えて大谷の広前に参拝したとき、自分を待ち構え、受け入れ続けた金光大神の姿が、浮かび上がったのではないでしょうか。居合わせた人々の経験が共鳴しながら「教祖」の発見につながったことを示しており、その意味で「教祖」は、「事実」レベルでの正否には依らず、人々にとっての「真実」として見出され続けていくと言えます。一人一人を待ち構える「教祖」。その姿自体、個々の成長、暮らしの安定を静かに願うものであり、またその姿に安らぎを覚えたとき、追慕されるような「親」としての姿でしょう。そのことは、金光夫妻のみならず、葬儀に駆けつけることの出来なかった者をも含め、金光大神と出会った者が等しく抱くことになった思いではないでしょうか。

3、「教祖」の発見がもたらす意味


 ここまで、金光大神の死後に新たな意味を持って「教祖」を見出した人の例を見てきました。では、「教祖」を見出すことが、その人にとってどのように意味を持つのか、佐藤範雄先生の場合について見てみたいと思います。 金光大神の死後、宅吉様がその跡を継いだことは先に述べた通りですが、宅吉様は昼夜を分かたぬ厳しい神勤を続け、修行に打ち込んだと伝えられています。このため、金光大神の帰幽から四年後の明治二十年の秋頃、その体調を心配したという佐藤範雄先生は、宅吉様と以下のやりとりをしたと語っています。

「四神様はあまり神勤めが激しうござります、御身体にお障りは致しませぬか」とお尋ね申し上げたところ、「吾だけでは迚も勤まりませぬが、毎夜十二時を過ぎますと、教祖生神が元の通りにお出ましになって、一日のお願い届けの御帳面を繰り返し繰り返し、三ヶ年の間御祈念下されましたので、不徳な吾も神勤まりました」との御返事であった。承りし余は驚嘆、且つ神秘にうたれ、只管恐れ入った事でありました。生神とは教祖此の世に御在世中の神名なりとばかり皆思いしに、生神は永世無限に生神であることを感得いたしました。              (佐藤範雄『教祖四十年祭を迎えたる余の回顧の一端』)

 ここで佐藤先生は、金光大神が「永世無限に生神」であったとの気付きを得たことの驚きを述べています。佐藤先生の意識では、金光大神の死後は、教えを以て金光大神の道を開かなければならず、それこそが自分の務めであるとの思いがあったでしょう。そうしたときに、金光大神が金光宅吉のもとに現れていたということは、自分の知り得ない金光大神の姿に向かわせられたと言えます。徹底的に金光大神は亡くなったものとして自覚し、自らの務めを果たそうとしているときに宅吉様の話を聞かされたのです。佐藤範雄先生といえば、この時期、教団独立に向けて組織化に取り組んでいたイメージが先行しがちでしたが、「永世無限の生神」としての「教祖」を知った先生にとって、教団を組織するということも、「教祖」を求める中で選ばせられた一つだったと言えるのではないでしょうか。

 そのことを具体的に窺うことの出来るエピソードを高橋正雄先生が書きのこしています。やや後のことになりますが、明治四十三年に佐藤先生が満州、朝鮮の視察旅行から帰ったときの様子について、高橋先生は次のように伝えています。

帰り着かれた時のこと、私は先生のおひざもとに置いていただいていたので、その帰着の御礼を神前にせられるのを、ともに後から拝しておった。すると先生は生ける人に物言うがごとくに言われるのであった。「生神金光大神様、このたびはあなたが満鮮をお巡りなさるのにお供いたしまして、ただいま無事相済み立ち帰り、まことにご苦労様でござりました。」と。       (『高橋正雄著作集第2巻 人・仕事・物』)



この時の視察は、現地で戊申詔書講演を行ったり、統監府を訪れて布教上の保護を願うなど、本格的な本教進出を実現することを目的としたものでしたが、佐藤先生にとっては、自らがそれらを行うというよりもむしろ、金光大神の後をしたがって現地へ赴くという感覚だったことがわかります。高橋正雄先生はこの佐藤範雄先生の姿について、「神とか道とか信心とかいうものが、自分の働き、すなわち仕事に溶け込んでしまって、一つになって動いている」「あるものはただ仕事だけで、自分というものすら、あるやらないやら分からないことになってしまう」姿を見たといいます。そして佐藤先生や、その他にも金光大神に見えた人の例を挙げながら、「教祖自身が仕事を大切にし、しかもそれを信心と一つにして、仕事と信心の解けてしまったところのものがあった」というように、彼らのなかに「教祖」を見出しているのです。

おわりに


 最後に私自身のことをお話しすると、以前、物事に行き詰まって、何もする気が起こらず、しばらく本部広前から足が遠のいた時期があったのですが、ある時久しぶりに教主金光様のもとにお届けに行かせていただくと、以前と全く同じようにお話を聞いてくださり、身体の力が抜けるような、ホッとするような思いにならされたことがあります。久しぶりにお届けをするということで、こちらの思いとしては、長いあいだ金光様にご無礼をして気が引けるような思いがあり、どんなお顔をされるだろうという不安もありました。しかし、こちらの不安とは裏腹に、金光様は私をそのまま受け止めて下さった気がして、少し前へ進めるような思いにならされました。それから研究を進める中で、生前の金光大神のもとに足を運んだ人も、いつ参拝しても自分を待ってくれている金光大神に出会った時、私が金光様に抱いたような思いを持ったのかも知れないと感じました。私の思いとしては、いつ訪れても待っていてくれている存在であり、祈ってくれている存在としての金光大神を、「教祖」と感じます。しかしそれは一つの意味に金光大神を固定することではなく、「教祖」を見出す営みは無限に続く営みであり、そのことが人間に自分の立ち位置を見定めさせ、前へ進ませることになるのだと思います。そしてこのことは、目の前にある様々な状況や思惑に沿ったかたちで「教祖」を捉えかねない人間の在り方を厳しく問うているのではないでしょうか。(了) 

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