平成17年教学講演会講演記録

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平成17年教学講演会講演記録



大林浩治(教学研究所所員)


信心をあらわす場としての「いま」


○信心をあらわす、それは何をあらわすことか?―シンプルにして深遠な問い


 一昨年に、新しく教祖伝『金光大神』が刊行されました。この教祖伝が刊行されるということは、昭和28年の「御伝記 金光大神」よりもさらに時代を経てきたということ、その間、教祖様の御晩年のことも明らかになってきたということ、教祖様の御生涯を一望できるまでに資料や研究の環境が整ってきたこと、などの状況が考えられます。

 そうした理由が考えられるのですが、しかし、なぜ教祖伝が刊行されたのかということから考えますと、それだけが理由でないことに気づきます。ご晩年のことが明らかになってきたからといって、教祖伝を刊行しようということとすぐ結びつきません。教祖伝として刊行しようという判断、気運がないと刊行されないわけで、じゃあどういう気運があったかが問題になります。資料や研究の環境が整ってきた、ある程度理解可能な確認ができる。だからといって、一冊の本として、直ちに刊行だ、とはなりません。そこに「いま」それを必要とさせた理由がなければならないことになります。教団的な願いとまでされているのですから。このように、教祖伝が著され、刊行されるという一つの出来事の動機背景には、「いま」の問題が深く関わっています。

 なぜ、それが「いま」なのか? 教祖伝を求める「いま」が、何なのか? それが、曖昧なままではいけない。刊行されたから、教団的取り組みだから、読まして頂き、教祖像を求めあらわそうなんていっても、どれほどわがこととして、腹いれしたことになっているかと自分に問われます。真に申し訳ないことになりかねない。

 このことは『金光大神』の内容、書かれている表現にも関係してきます。表現には、「いまを生きる人間の願望」が投影されざるを得ないからです。「いまを生きる人間の願望」を投影させ、それが解釈として示されて、教祖像の真実味、リアリティーが読む者に与えられるということになります。そういう表現の世界と読みの世界を橋渡しするカラクリにも、「いま」の問題が関係しています。

 例えば、いま「御神願成就のお役に立たせて頂く」という目標を掲げています。けれど、何が「御神願」なのか? 「御神願」を知っている自分なのか? 重要なのは、それをいまどう知ることになったのか、なぜ目標に定めることになったのかの方です。何が御神願と呼ばせるのか?を抜きに、「金科玉条」のごとく、「水戸黄門」の印籠よろしく「ひかえ、ひかえー」というように「問答無用」としてしまっているとなると、大変な問題だと思います。記号化された言葉を巧みに使えること、あるいは記号化した言葉の権威ばかりをいうことになっていてはいけません。問題は、どうしたら人が幸せになり、信心の喜びをそこで感じることになるか? それをどう伝えているのか? 果たして自分はそれを発見しているか? それが重要だと思います。していない以上、ウソになる。自分にとって自己欺瞞になるからです。

 しかし、なかなかそうならない。私自身が、記号のように信心をあれこれいっている。「生きる」という事柄を、「生きられている」という前提で考えてしまい、同様に、「信心」のことがらを、「すでに信心している(させていただいている)」という前提で語ってしまっている。そういう問題に気づかされます。「おかげ」「助かり」のありきたりな意味に終始しているのではないかとさえ思われます。

 そもそも教祖様というのはどういう方か? それは信心の始まりを体現された方だといえます。その方の生涯が教祖伝として刊行された。刊行されたといいましたが、そのことが重要です。つまり、刊行された「いま」こそ、改めて信心の始まりを体現された教祖様が求められている、といってよい。そういう時代の「いま」といえます。

 なるほど、現代は価値転換の時代だと、そこかしこでいわれています。どうしてもそういう時代をよりよく生きることが必要になる。生き抜くためのよりよいあり方が求められている。ということは、その求めと同じく、「信心」に「語り直し」が求められているということでしょう。まずは、自分自身がそういう態度、構えになっているか? その点検が必要だと思われます。

○「いま」―信心がなぜ求めなければならない事柄となっているのか?


 とはいえ、おそらく、ふだんの私達は、「生きられている」ことが、すでにわかりきったこととなっています。そういう実感で生きています。しかし、ほんとうにそうなのか。 私自身もそうですが、すぐ「ああしんどい、面倒だ」という文句や愚痴をこぼします。なぜいうかと考えてみますと、思惑通りには行ってないことに不満をもっていることに思いあたります。思い通り行かないから文句になる。けれども、よく考えてみると、現実こそ思惑通りにならない当のものなんですね。そこで文句がついつい出るのは、「自分の思惑通り以外のことを認めてやるか」っていうえらそうな気分に自分がなっているからです。文句が出るのは、自分はそういう実感にしがみついている証拠になります。それほど往生際が悪い。現実から裏切られている自分を認めたくないんですね。これは私だけではないように思えます。このように、思惑通りに行かないことを認めたくない気分、今年の流行語にもなった、自分の「想定内」で「生きられている」と思っていると、とかく周囲とトラブルを起こすことになる。

 しかし、一方で、「ああ、これが現実なんだ」といったり、思ったりします。おもしろいことに、それは全く逆の実感でいっています。現実的ではない光景を前にして、「そんなのありえない」という、非現実的な実感が「これが現実なんだ」といわせているからです。現実的でないからこそ、現実なんだといわせられている。

 そう考えると、むしろ、自分の想定を外れて現実があるのだと思い定めてみて、その現実を「生きる」という意味から立ち上げる必要性があろうかと思います。人がほんとうに納得して生きるためにも必要で、そこに自ずから必要になるのは、始まりを約束づける「信心」でしょう。発生の問題として「信心」を語ることが大事になってきます。

 依然、珍しく子どもからほめられたことがありました。「おとうさん、いいこというなあ」と、いうてくれたんですね。テレビを見ていて、番組は忘れましたが、コメンテーターが「最近の中学生事情は」といって、何か昔と想像できないぐらいに、性的に乱れているだとか、犯罪意識がないとかいい、それと対比して、「昔のような倫理や道徳は、もう廃れてしまったんですかねえ」なんていってたんですね。子どもは「そんなんいわれてもなあ」といってみていました。その時にこういったのです。

「昔はああやった。こうやった。」って、親っちゅうのは、自分の子どもの頃と比較して、よう文句いうやろ? 「いまの中学生はけしからん」なんて。あれはいけんよなあ。昔の中学生が、いまの中学生を生きるなんてのはできないくせに。これ見よがしに子どもに文句いうばっかり。よう考えてごらん。例えば、おとうさんは、きっと、おとうさんが中学生だった頃の昔しか生きれなかったと思うよ。あの時代を中学生で生きるほか、していないんよ。だから、いまを中学生として生きるのは、おとうさんにはできんし、もしそうなったら、うろたえるだけやで。それだけ、いまを生きるというのは、大変な問題なんやと思うんや。一生懸命生きるほかないんやから。だからキラキラ輝くことにもなる。人は昔の規律や道徳を生きるわけやないからなあ。そやのに頭ごなしにいってみたくもなる。いけんよなあ。いま中学生である人以外、いまの中学時代を生きることはできないんよ。

 こういうと、「いいこというなあ」とほめてくれたんです。昔のいまと、現代のいまとは、質が違うんですね。年齢が高いことをいいことに、その違いを認めずに文句をいうことになりかねない。それぞれの年齢での生きる「いま」があり、それぞれがそれぞれとして、異なった存在理由、価値を担っている。だからこそ、「いま」という舞台で、それぞれの「いま」にあって、生き生きと働きかけてくるものにいかに出逢うか? それが大事だと思うんですね。

○実存不如意(現実との違和感の問題)の体感にあって


 よく私などは、自分の思いがうまく言葉にならないことに出会います。「信心をあらわそう」といっても、また、「自分の言葉で自分の思っているところを喋ればよいから」といわれても、なかなかそうならないときがあります。現実との違和感が問題になっている場合、実存不如意の体感にあっては、特にそうです。現実はこうだろうという実感が生じていないことの方が、自分には最大の問題になっているんですね。だから、その違和感に見定めをつけなければしゃべれない。相手に通じる言葉になるかどうかもわからないからです。 

 詩人の宮沢賢治に対して、「彼は、異人性、部外者性の感覚を持っていた」と評する人がいます(西成彦『森のゲリラ』)。人は、宮沢賢治の言葉に感動するけれども、その世界に生きる当事者、宮沢賢治にしてみれば、言葉を喋る感覚は「人生を歩む上での障害であるかのように感じられ」ていたと。

 アリストテレスもいっています。「哲学、政治、詩歌、または芸術の分野で卓越するにいたった人間たちがすべて憂うつ気質(メランコリック)であるのはなぜか」(アリストテレス『問題集』第三〇編)。それを聞いて、「ああ教祖様もそうだろうな」と思うんですね。となると、「いま」と自分は不適合状態だという自覚は、信心を発酵させるのじゃないかと思うんですね。苦境状態や鬱屈状態、いまある現実との不適合状態、関係失調の精神環境は、自らを信心世界へテイクオフ(離陸)させる契機になるのでは? ということです。じゃあそれをいかに切り開くのか? それを考えさせられます。やっぱり鬱屈気分だけでは健康じゃない。鬱屈をもたらす現実というのも、やはり問題にしなければならない。行き詰まりに酔いしれるだけでは、世界のひずみとしてその眼が見ている問題は残されたままになる。だから、そういうとき、人間的出発の原点として、「教祖」に目が向くことになる。

 教祖様の生きられた時代は、世界的に見て、悶々とした時代だといえます。それは「世紀病」とか、いわれてます。「ヒステリー文化の時代」(サント・ブーヴ)だとか、「世紀の病、それはヒステリーだ」(ジュール・クラルティ)とかいわれています。いつまで続くのやらわからぬ災難の連続、そして人心の波立ちがありました。日本社会の幕末も、なるほど「幕末だ」と呼ばれる精神状況が、次のようにあります。

世の人鬱気の病ひとて、打も臥ねど何となく心地楽しからず。顔の色あしくして、気力とぼしく痩せゆくが、若き頃、此なやみ無き人は、大かた愚なりと知べし。此病にて死ゆかんもまたおろかなり。只危かれど、とかくして生延来たらんこそよけれ。(世間の人は鬱気の病気だというから、うちふしているけれど、何となく心地はよろしくない。顔の色も悪く、気力もなえ細っていくけれども、まあ若い時にこんな悩みない人は、たいがい愚か者なんじゃないかとしておこう。けれども、この病気で死んでしまうのも愚かだ。ただ危ういけれども、とかく生き延びてきたということをよしとしようか)橘南谿『北窗瑣談』文政八年

 また最近、野口武彦氏の著書『幕末の毒舌家』で有名になった大谷木醇堂という人の言葉にも、こうあります。これは同氏の『江戸のヨブ』からの孫引きです。

心気ふさぎて濛霧に掩るるが如し。そのいぶせき事筆舌の尽くすところならんや。(気分ふさがれて、もやもやと霧におおわれているよう。そのうざったいことといったら、言葉にできませんわ)大谷木醇堂『十五年間僥倖遭遇記事』文久二年

 教祖様も憂鬱体質だったかもしれません。「神々願い、祈念におろかもなし。神仏に願いてもかなわず、いたしかたなし。残念至極と始終思い暮らし。」といわれてます。「天地金乃神様へのご無礼を知らず、難渋」(安政五年)したのだと。「信心しとったって…」と、何か後ろめたく、不足を思っていたと正直に書かれておられます。願いにおろそかもないというわりに、心持ちは整ってなかったんです。これは『覚書』に書かれています。

 『覚書』は、皆さんご存じのように「生神金光大神、生まれ所、なにか古いこと、前後とも書き出し」というもので、生神金光大神という出来事、その「はじまりの力」を探すかたちで開始されます。人間に催される「力」としての生神金光大神。生神金光大神は、天地金乃神様の働きを受けるその出来事としてあったことになります。その出来事は、信心に対してもやもやしていた教祖様と、人間みんな訳知り顔で「信心してまーす!」と言いながら見向きもしなかった、それどころか遠ざけていた金神様とが出逢い、スパークした、その事件に名付けられた名前だといえます。

 ところで、教祖様の憂鬱は、実は世間体の問題、つまり世の中が自分に向ける視線に由来していたことにも注目してよいといえます。子どもの死や病気自体に、憂鬱の原因はない。世間からの視線、あるいは世の中の現実との違和感、場違いな感覚が自分を苦しめている。そういうことになります。安政六年五月下旬のくらさんの病気の際には「もの案じいたし。信心いたしてもどうならんものじゃのう、またあそこには子が死んだと、人に言われるが残念と思い、いたしかたなし。」と書かれます。病気そのものじゃなく、世間の目との間に気鬱感があるということです。「宮の儀は、屋敷内建て、苦しゅうなし」(元治元年四月九日)や、息子の萩雄さんと娘のこのさんがそれぞれ結婚される。同じ古川家との同時結婚の際にも「世間の事言うな」(明治七年一〇月二二日)にも窺えます。世の中との失調感は、それほどに神様との関係を蘇らせるのかも知れません。

○教祖が求められる時代―表現の格闘に見る大正末昭和初期とは?


 実は、教祖様の時代、幕末明治初期と、大正末昭和初期、そして現代もあげていいかもしれませんが、奇妙な連動があります。それが、震災とテロです。ちょうど世界史的に見て変動の時期に当たります。間には世界的規模の戦争が生じます。幕末の震災から大正の震災まで六八年、大正から平成の震災まで七二年、大体七〇年間隔です。

 震災には、「イズレも世は末になって、徳川様も永くはない」といった気持ちが蔓延しました(篠田鉱造『幕末百話』)。幕末には、不平士族の反乱が生じています。「これこれ皆さん聞いてもくんねえ、ワッチもこの頃井伊こと聞いたよ、定めてお前も知ってであろうが、そもそもこのたび騒動の始まり、唐人呼び寄せ、方々歩かせ日本人より大事に扱い、おまけの果てには交易お開き、お江戸の町では飢饉も同然…」(『花吹雪隈手廼塵』)なんていう、ちょぼくれがはやったといいます。井伊大老暗殺という有名な事件の事ですが、この地方では、元治元年倉敷下津井屋吉左右衛門父子が襲撃され、首が川で発見されました。「頭ひやひや、足あつあつ」と町人はさわぎ立てます。胴体は火事で焼け、一方、頭は冬の川に落ちていたというものです。慶応二年には、長州奇兵隊の一部が倉敷代官所を襲撃しています。

 こういう状況は、大正末昭和初期の関東大震災とテロにも重なるといえます。その中での現実は、大きく揺らいでいます。その揺らぎの中で教祖が求められます。

 震災は、世界と自身のゆがみそのものを体感させます。一体だと思っていた時間と空間がずたずたにひき裂かれた後に、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が生じています。片島幸吉師は、心的外傷(トラウマ)の問題やフラッシュバックに触れてもいます。

…この騒ぎが落着いてくると、各自が受けた痛手の深さを今更に満喫しなければならぬであろう。その荒涼とした心持ちからいろいろの事が生じてくるのも予想するに難くはない。…この惨害の当然の結果として悲観的傾向も強くなるかも知れない。これまででも神経衰弱的な、ヒステリー的な弱々しい調子が人生に対する態度に明かに現れておりましたが、気力の弱い人々は益々濃厚にこの影響を受けるにちがいない。無常、はかなさ、人生の暗さ、これらの事が新しい意味を盛って人の心によみがえってくるであろう。(片島幸吉「阪神通信」『金光教青年会雑誌』第二七号、大正一二・一〇・一)

 震災によって、当たり前に思ってきた感覚、世界観が崩壊します。しかし実際は、すでに崩れてたんだということを再確認したということです。だからこそ「それでも救われている」という思いも生じました。「人生をあきらめるな」という気持ちを起こさねばならないと奮起されます。どうしたら起きるかじゃなくて、起こさねばならないという問題の立て方です。当時の教義的関心として「生神」「生神金光大神」が注目されますが、それはあきらめがちな気分が生じていたからこそ、そんな自分を救うものとして見られていた、ということになりましょう。当時の文章を読んでみますと、生神を見出すことで、語る「私」自身が発見され、救われる、そういう様子が窺えます。教祖を語ることで、「私」が「私である」根拠を得ようというものです。

 だからでしょうか。絶叫口調やぶつぶつ、間歇性の発作のような文章など、奇怪な文章の数々にも出会います。奇怪さで良く知られているのは高橋正雄師だといってもよいでしょう。『我を救える教祖』は皆さんご存じだと思います。しかし、あれなどは、実際手にしてみて感じられると思いますが、読み方に困るものだと思います。いつもおかしいなあと思っているのですが、あまり誰も文章の奇怪さを問題にされない。あの人の権威に負けて、読めたことにしているのか、敬して遠ざけているのか。わかったこととして、奇怪さを無視する、遠ざける。あるいは、奇怪さをいうにしても、他者性の欠如、自問自答の自縛だと難じるのみ。それでいいのかなあ、と思います。

 奇怪さでいえば、教学論文にもいわれます。「難しいからもっと易しくしてよ」と。教学は教学としてこの問題を受けとめねばならないのですが、しかし、「だから易しくせよ」とは、なかなかならないと思います。考察過程が重要である以上、易しくして、結論部分だけを書くだけでは意味がないからです。そこに重要な問題があることを理解していただくほかない。そこにこそ教学としての格闘があるからです。いまいったのと同様、教学研究は、そこに研究者の闘いがあるからで、それを抜きにした論文は、一回読まれて終わり。「ふーん、それで何なん?」とされること間違いなしです。

 ともあれ、当時の教内紙誌には、納得していまを生きようと人間の可能性を模索し、そこから出発しようとする人を多く見出せます。しかしそれが容易でない。「更始一新」、「信心の維新」といっていても、「始まりそのものが始まらない」という鬱屈が見れます。「始まらなければならない始まりが始まらない」という悪戦苦闘には、独特の生命の調子、響きが聞こえます。その何例かを挙げておきました。

一筋に信ずるという事が私には出来ませんので悩んで居ります。信じて居るつもりで居りましても本当に有難う成って参りません。又未信者の人生観を聞きますとその話しで共鳴いたしませんまでも自分の信神がぐらつく様に思われてなりません。私も理屈に囚われる一人であります。本当に心のドン底から有難くなって参りません。日々の自分の行ひは神様の御機感に適わぬと意識して心の底からおわびさして頂く事が出来ません。活きている事が有難いという様な気分になれません。(「信仰問答」『金光教徒』第三六八号、大一二・四・一)

 ここには、精神の暗さが見てとれます。体面だけは取り繕おうしながらも、それを隠すこと自体、いたたまれないという、自己欺瞞への苛立ちがあります。信心に与ってもなお生じる「私」のあやふやさに苦しんでいる。「私」の確かさの崩れがあり、それが現実だとなっています。そこから教祖にまなざしが向けられます。「信じるとは何か?」という問いが、そこに重ねられているといえます。

 ご覧のように、社会と自分との関係の不安定性そのままが話法に反映されています。そのような不安定さは、それまで当然としてきた現実を何とかしなければならないという気運が起こるのと機を一にします。所与の現実を一挙に変革性の場へと変換してみることになっています。次のような声に、あらわれています。

…専ら概観に主力を傾倒せる、形式の整ひ概要の美なるに比して、内実の力に於て足らず安からざる嫌い無き能わず。即ち初め人制度を作るも後制度人を作るの観を現じ、行制者の恰も罹催眠者の指揮者におけるが如く、一種不思議なる運命力に支配せられて動くが如き、青年の意気をしてあたら悶々鬱結せしむるに至る。今や其の悲憤は啓発せられんとして道は将に維新の期に入らんとす。(関口鈞一「奉迎教祖四十年に就いて」『金光教青年会雑誌』第二七号、大正一二・一〇・一)

 また、教団という理解の地平を捉え直そうという変革志向も見えます。

仏教という教団生活の中にのみお釈迦様を見ていた私には、真実に生きたお釈迦様を見ることはできなかったのです。切実な念願に生きぬくことを忘れている宗派宗団の色にのみ、そめ上げられたお釈迦様はほんとうのお釈迦様ではない。(福嶋真喜一「近頃の私」『金光教青年会雑誌』第一一二号、昭和二・七・一)

教祖の道は只金光教信者のみの所有に帰してはならぬ(大林誠実「教祖の道は只金光教信者のみの所有に帰してはならぬという思想」                              『金光教青年』第一号、昭和三・一)

金光大神は金光教という教団だけの私有物ではない。…教祖の教えを真に解する人が思わぬ所に出てくる。丁度地下水のようなもので、その水道へ深く掘りあてたら、その孔から清水が湧き出るように、教祖の御神意を受ける人間が教団外から現れないと誰が言い得るであろう。(白旻生―佐藤博敏のペンネーム「春日断感」『金光教徒』昭和八・四・五)

高橋:教祖を通じてとか、教祖の手続によってとか云う時に、そこに必然的な関係があると云うところに今日の教団の中心があるのでしょうな。…生神金光大神というものは、私は親鸞や釈迦の中にもあると感じるのです。ですから私の生神金光大神の信じ方は、もとより教団の中にもそこに金光大神の真生命はあると思うが、そこにだけ限られたものでなく、限りのないものであり、天地に貫き切ったものであって、生命的なもの本質的なもの、それが私に感じられ、私を生かしてくれて居る気がするのです。

内田:…一面から言えば吾々は歴史的肉体的に現れなされた教祖というお方、またその教祖の御神徳に驚きもし、それによって救われもして、多くの人が引きつけられ、助けられ、教団も出来、教会も出来たという事実から離れることが出来ませぬ。そして救われた人々も必ずしも普遍的な生神金光大神というような事よりも自分に特別な生神金光大神を信仰したのであり、普遍的な信念を持っている者ばかりではない。(中略)高橋:その点は生神金光大神という普遍の生命、天地を貫いている生命が、具体的に現れるのは、肉身を持って此地に生活された教祖に現れ、また他の人に現れるので、その現れた所に特殊の救済がある。私にしてもこの教団の人々の中に金光大神を見る。その人々に見るのです。佐藤(範雄)先生もよく仰るのですが、生神金光大神は日に日に生まれて居られる。どうしても教団を通じて特殊必然性があるとは思いますが、同時に私はそこに普遍性自由性を認めざるを得ぬのです。そこに生神金光大神を感ずるのです。
(「同光会夜話・正雄氏の信仰観」『金光教青年』第一五号、昭和四・三)

  一様にいえるのは、「わかりきったこととして、信心や教祖様が語れない」という気分です。にもかかわらず、というか、だからこそ、というか、己を強いていおうとされたのです。

 大正末昭和初期は、「モダン文化」の到来と当時いわれます。時代は新しい。しかし時代の新しさを新しく生きることにはなっていない。問いかける人間にとって実感は奪われたまま、単に時間は過ぎゆくだけという気分です。いのちのリズムは、時の刻みとは別の鈍重な動きとして感じられたといってよいかもしれません。そしてそういう時代だからこそ、教祖様の信心が改めて求められた、いやむしろ、求められねばならなかったといえます。そういう時代が、大正末昭和初期だったのです。

○まとめにかえて  易しさに逃避する現在?


 「いま」は、時間の連続した流れとしての「現在」という言葉で実感されます。一方では、瞬間、瞬間、そのつどの「今」とも感じられています。「いま」は、言葉として、そういう感覚を与えます。自分自身の実感からの「いま」は、どちらかというと、時間の流れといったものを、容易に考えさせない。「はい次、はい次」とせかされるように、「いま」を感じているといえます。歴史的現在の「いま」は、そう感じられています。「はい次、はい次」とせかされるような毎日ですが、そういう毎日にあって、どう信心を求めて、言葉で表そうとする格闘があるのか、となると、正直あまり窺えないのが実情じゃないでしょうか? 一見わかりやすい表現は溢れてます。しかし、果たして、そんなにわかりよい現実なのかというと、事態は全く逆です。わかりやすい表現を求める現実は、逆説的に、現実感を薄めている。そういう「いま」でしょう。

 私の思いを述べさせて頂き、終わりにしたいと思います。見てきたように、教祖様を求め、それを表現する悪戦苦闘を自らに強いた現場に、人が人として当たり前に生きるための、はかりしられぬ思いが刻まれているといえます。眺めるだけの信心の言葉、表現として定着しきった言葉から、信心の理解、教祖理解を紡ぎ出すだけでなく、人として幸せに暮らしていこうとするための膨大な格闘の成果、その遺産の積極的な受けとめの上に、信心の言葉、教義的理解が基礎づけられねばならないのでは? と思います。そうした態度、構えの重要性が、経験を「生きられた」ものにする可能性があるのじゃないかと思います。

 これでおわります。有り難う御座いました。

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