| 平成17年教学講演会講演記録 | |
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| 加藤実(教学研究所所員) | | |
金光大神広前への参拝の諸相
はじめに 本日は、「教祖との出会い」というテーマのもと、この度刊行されました紀要『金光教学』45号に掲載しました「金光大神広前への参拝の諸相」という論文の内容につきまして、その内容をお話しさせていただきたいと存じます。
いま、皆様は「ご霊地」に御参拝なさっておられます。この「ご霊地」に参拝することは、どのような信仰の営みなのか、ということを改めて考えてみたいと思い、このようなテーマに取り組みました。
われわれ信奉者は、現在このご本部がございます金光町大谷の地、いわゆる御広前、境内そして門前町を形成している所を「霊地」と呼び慣わしてきています。例えば、遠方からお参りされる方は、金光駅に降りたところから「ご霊地」に参ったという実感を持たれることもあるでしょうし、国道を走る車から木綿崎山にたなびく教旗が見えたときに「ご霊地」に参ったと感じる人もあるでしょう。あるいは「金光饅頭」「ご神訓煎餅」の香ばしいにおいに、「霊地」に参ったなあと感じる人もあるでしょう。
このように何か「ご霊地」とは、本教信奉者にとって他のいかなる所とも異なる特別な感情を湧き起こすような空間、あるいは場所であると言えます。
かつて「霊地」の意味を共同研究「霊地という経験―本教における『聖地論』の試み―」(紀要『金光教学』41号)という論文で、このような本教信奉者が抱く「御霊地」への思いについて追究を試みました。
そこでは「霊地」への参拝者や霊地に住む人たちの信仰を見ていくことで、「霊地」とは「教祖様にふれられるような町」「生活をする場であると同時に生きる力を与えられる場」であると論じたことがあります。つまり、「霊地」とは、初めて神と人とを取り次いだ教祖である金光大神のメモリアルの場である、あるいは、天地全体がそこに集約されている、とまで言えるような神域ではないかとも考えました。
ところが、次のような教祖様のご理解があります。「遠路のところをさいさい参るにはおよばない。天地の神はどこにでもおられるから、一心に頼みさえすればおかげは受けられる」ということをたびたび話された。(理解Ⅱ類片岡馬吉1) つまり、この「ご理解」では、神さまは「どこにでもおられる」ゆえに、大谷村の金光大神のもとへ参拝して祈念をしなくとも、何処の地にあっても、一心に頼めば神に願いが届くという教えを教祖はされています。
この教えは、神さまが天地のどこにでも遍満(満ち渡っている)していると語り、神世界に対する確かな手応えを示すものでしょう。 そして、この理解では「参るにおよばない」と、不参を促しているようにも思われる、参拝という神に会おうとする行為の意味を無効にしてしまうような表現で語られています。
とはいえ、この「理解」で語られているのは、神参りという信心を成り立たせてきた一般の通念をはるかに超え出る神の世界の真実でしょう。「天地の神はどこにでもおられる」つまり神が実在し遍満しているという事実は、おそらく金光大神広前(大本社)へ足繁く参ってきた片岡馬吉さんのような人への諭しとして「さいさい参るにはおよばない」と語られていたと考えられます。片岡馬吉さんは、上道郡(現在の岡山市)に住んでおられ、月参りをされていました。当時は岡山から歩いての参拝でした。片道三十~四十キロくらいですから、一日がかりで、場合によっては一泊を必要としますから、仕事を休んで費用も掛けてとなると、たびたび参ることはなかなか困難なことであったと想像され、教祖さまが、費用をかけて仕事の時間を割いてまでさいさい参るにはおよばないと諭されたのも、参拝者へのご配慮として頷けるところがあります。
さて、この「理解」から、参拝することで神体験の真実を受けとめていく(たびたび参った)ことと、神による参拝の意味、「参るにおよばない」という教えの間には、ある意味のズレがあることが感じられます。
片岡馬吉さんは、金光大神が諭す神世界からの参拝の意味を、当初は訝しく享受しながらも、その真実を確かめたいと思ったに違いないと思います。
では、このような諭しを受けた人は神を実感した後、金光大神の教えのままに参拝しなくなったと考えてよいのでしょうか。そうではないと思われます。むしろこのように享受された神世界の真実だからこそ、今度はその世界により深くふれてみたいとの熱い思いに駆られ、それまで以上に参拝が欠かせなくなったのではないでしょうか。
冒頭引用した片岡馬吉さんの「理解」伝承がそうであったように、神の世界を享受する体験も、参拝を契機としているならば、信仰の新たな境位を獲得していった、言い換えると神の世界を実感的に獲得したなんらかの経験を金光大神広前(大本社)への参拝の経験に見ることができるのではないでしょうか。
今回は、時間の都合上、特に論文の第2章の参拝の道行きにおける参拝者の経験の様相について、佐藤範雄先生と近藤藤守先生の参拝の事例から、日常を超えて参拝に求めた思いを捉えつつ、その経験で得た境位について考察した内容を紹介したいと思います。
(1)闇夜の参拝と峠の祈念―佐藤範雄先生の参拝事例から― 参拝における神経験の密度の高まりが、どのように参拝者に経験されたのかについて、佐藤範雄師(1856~1942)が、闇夜に行った参拝の事例から考えてみます。佐藤範雄先生は、明治九年(1876)旧正月に初参拝をなさっています。このことは後ほど触れます。初参拝以来、佐藤先生は、月参りをされるようになります。
明治一五、一六年ころからは、夜に自宅を出立して、大谷に滞在し、教祖金光大神様から教えを聞き、また夜帰宅する参拝の形が常であったと語り、次のような参拝の様子を伝えています。佐藤先生は、夜中を通して参拝する理由を明確にはしていません。大本社から帰り着くのを信者らが佐藤先生宅で待っていたと伝えられていることから推量すると、おそらく昼間の取次にできるだけ支障がないように、との意図が一義的にはあったと思われます。 闇夜に小雨さへ降り、提燈を持たぬ身の安らかに通り得べくもない。遂に四つを立って、漸くにして通り過ぐ。行手は山と畑との間道なれば、そのまま這い続けた。その時余は心に「今四つを立って犬のような歩き様はしても、他人は見ず。これが信心のお道という道を通るのじゃ」と勇み立ち、嬉しく思いつつ帰った事もあった(佐藤範雄『信仰回顧六十五年(上)』信仰回顧六十五年刊行会、昭和45年、7頁。)。 住まいのある御領(大谷から約三十キロくらい北西に位置しています。)から大谷まで闇夜を歩いて参ることについて、「小雨さへ降り、提燈を持たぬ身の安らかに通り得べくもない」と語り、佐藤先生は危険な目に遭うかもしれないという不安感を抱かされています。真っ暗な闇夜では、立って歩くことが困難となります。佐藤先生は「四つを立って」と四つん這いの姿勢を取って、道を這って参ったと語っています。
佐藤先生は、四つん這いの姿勢で道を這っていくことを「信心のお道という道を通る」ことだと例えています。
では、「信心のお道という道を通る」とは、どのような感覚をつかんだゆえに発せられた言葉であったのでしょうか。
闇夜では、視覚は遮断されるため、日中ではバランスの取れていた運動感覚、平衡感覚が崩されて、自分が立って歩くこと自体も自明ではないことに気づかされたのではないでしょうか。そして、この闇によって立っては歩けないという感覚は、「私」を支えているものとは何か、という気づきにつながったのではないでしょうか。
夜の闇は異界、地下世界に通じると言われています。四つん這いの姿勢は、結果として地の神金神の世界、つまり「私」を支えてくれる世界との出会いを生じさせたと考えられます。
その感覚が「信心のお道という道」を通るという言葉に表現されたのではないでしょうか。このように佐藤先生は参拝の道行きを神への近づきの場として捉え、神との一体化を念じ、神世界へ没入していくプロセスとして、精神を高め研ぎ澄ましていくことが試みられる時空間となったと考えられます。
さて、佐藤先生は、明治9年(1876)旧正月10日、大本社に初参拝し、その帰り道、里見川の土手の道にさしかかったとき、大本社を振り返り見て、次のような感慨を抱いたと伝えています。土肥氏と共に種々御理解を頂いて帰路、今のみかげ橋の三、四十間上流が占見渡りで、板の一枚橋を渡る前に、後方を振り返り見た時、旧広前は藪の中であったが、彼の藪の中から生神様が天にお通いなさる道がついておると感じ、天を拝し、地を拝した。(佐藤範雄「教祖四十年祭を迎えたる余の回顧の一端」『直信先覚著作選 第2集 佐藤範雄・照講話教話集』金光教徒社 昭和54年、7~8頁。)。 佐藤先生は、竹薮の中から垣間見られる大本社に「生神様が天にお通いなさる道」がつながっていると感得しています。「生神」が天に通う道を目の当たりに感じた佐藤先生は、「天を拝し、地を拝した」といいます。その天と地とを拝する行為は、金光大神から発せられた「裁伝」を聞き、大本社が「天」と「地」との接点であり、神の霊威が具象的に示現する「場」であることが悟られたためではないかと考えられます。そして天へと通じる道とつながっている、竹薮に囲まれた大本社は、佐藤先生にとって神世界の原風景として心に刻み込まれることになったと考えられるのです。
明治20年1月谷村卯三郎が、同行の絵師に写生させた大本社の絵図。 名古屋教会蔵。手前左端の建物が「吉備乃家(藤常屋)」と推定される。 ここで、大本社の絵図が残されていますので、この絵図をもとに当時の大本社の様子をうかがってみましょう。絵図には、上部に、里見川沿いの往来道が描かれています。そして教祖様の奥城とそこへ登る道、木綿崎山の大松、大本社(絵図には「御本社」と表記されています)と東長屋など付属施設、参拝者の姿などが、南の方向から俯瞰的に描かれています。里見川沿いの往来道からは、南進する道が分岐して、「御本社」の門前へつながっています。そこを一台の人力車が走る姿が描かれており、これは、谷村卯三郎先生が乗っている姿を描かせたと伝えられています。母屋は「御本社」、東長屋は「社務所」、門納屋西の建物は「事務所」と説明書きがなされています。そして、さらに板塀を隔てた西隣の建物は、教祖様の二女藤井くら・恒治郎夫婦が営んでいた旅館「藤常屋」(後、「吉備乃家」)です。
この絵で目をひくのは、大本社の東側の木綿崎山に描かれている「金光大神廟」「金光登勢廟」と記された木製の墓標と、松の大木です。木綿崎山には「大松」と呼ばれる松の大木があったと伝えられています。
松は古来から「神の乗り移る木」とされており、絵の作者には「神界」へつながる木として印象的に捉えられたのではないでしょうか。また、当時、金光四神が「取次」を行っていた「御本社」の後方から奥城へと石段で整備された道が描かれています。この絵図に表現されている「御本社」「奥城」「松の大木」という動線に注目してみますと、「神界」から「松」へと神が降臨し、奥城を通じて「御本社」の結界に端座する金光四神につながっているという、いわば「神の通路」が表現されていると解釈することができるのではないかと考えられます。このような表現は、先に述べましたような、佐藤範雄先生が初参拝時に受けた「生神様が天にお通いなさる道がついておる」と、感覚的に通底するものがあります。
この絵図をみて、病気のために参拝に同行することができなかった谷村先生の奥様は非常に感激されたそうです。大本社への参拝がかなわなかった人にも、この絵図を通して、大本社を間近に仰ぎたいとの期待感を満たし、信仰情念の高まりをもたらしたのではないでしょうか。
このような初参拝時に感じとった大本社の印象は、その後、どのような影響を佐藤範雄先生に与えたのでしょうか。
ある日、佐藤は住まいのある御領(現広島県神辺町)を夜遅く出発し、道中の亀居峠(現岡山県笠岡市尾坂)にある岩の上に座し大祓詞を読誦しつつ、朝日を待ったことがあると伝えています。御日様が御昇りなさるのを拝み、又ここから本部の方は指呼の間に見えるから、その方を向いて岩の上に座し、大祓を奏上する。もし、この所へ来ても夜が明けぬと、岩の上で御日様の出られるのを待っている。 そのように、必ず大祓を奏上することにしていたが、その内、神徳を頂き、どうかしてあそこまで飛び行かんと思い、「信心の力で一飛びに行かれぬ位では駄目である。それでなければ、真の神徳を受けたと言われぬ」と考える(佐藤範雄『信心の復活』金光教芸備教会、昭和57年、106頁)。 亀居峠は、住まいのある御領から歩いてきて、初めて大本社のある大谷村が遠くにではあるが、眺望できる場所です。佐藤先生は峠の岩に座し「ここから本部の方は指呼(しこ)の間に見える」と、東方から昇る朝日の光の中に開けてくる大谷村を遙拝し、「飛んでいきたい」と念じています。
では、なぜ佐藤先生は峠の岩に座り、「飛んでいきたい」とまで念じたのでしょうか。 峠はしばしば行者らの遥拝所であり、「信仰の折り目をつける場」になっていたと指摘されている(野本寛一「聖地と風景―峠―」『日本の神々―神社と聖地―第11巻月報5』所収、白水社、1984年、4頁)ように、佐藤先生が峠で祈念したのは、そこが自分の住む世界と神世界との分岐点として意識されたからではないでしょうか。峠からの「飛んでいきたい」という佐藤の祈念は、一刻も早く、生神が天に通う道がつながる大本社にたどり着きたいとの願いに突き動かされて行われたと考えられます。
「飛んでいきたい」と念じる佐藤先生の心には、地上の人間界と天上の神世界との境界を超えていきたいという願いが強くあることが窺われます。だが、佐藤先生は岩から飛びおりかけようとしたところで、「馬鹿者奴。軽業師でもあるまい」と、神からその行為を止められました。神世界との境界を超えたいと念じても、超えることはできないという現実に直面し、境界を超えている生神(金光大神)が、天に通う道がつながっている大本社に手を合わせることで、一歩でもその境地に近づきたいと念じたのではないかと考えられます。
初参拝時に大本社で体感した神世界への入口がそこに待っており、そこへと向かう道行きでは、宙を飛ぶこともかなうのでないかと思うほどに精神が昂揚し、自らの生が更新されていくことが、その身にひしひしと、佐藤先生には感じとられたのではないでしょうか。
(2)お国参りと大本社の象徴的な意味―近藤藤守の参拝事例から― 次に、近藤藤守先生の初参拝した時の大本社の印象を紹介したいと思います。御修行場たる六畳御一間は実に目も当てられぬ汚しい茅屋で、敷物としては破れ畳三畳と荒蓆三枚が敷かれてあった丈で、これが後々一教の開祖と仰がれ給う御方の御居間とはどうして受取られよう。(藤陰青年会編『藤守先生講話集』 藤陰雑誌社、1915年、4頁 近藤先生は、大阪からの道すがら、「心の中では、いろいろ生神の御姿や、あたりの景色などを心に描き、今日はいよいよ鶴のような仙人に会うのだ」(早川督『天地金の大神』 輝文館、1912年、25頁)と大本社の風景や金光大神の姿をあれこれと思い描き、期待をふくらませていました。ところが、大本社に着くと、想像していた風景とは全く違い、大本社は「目も当てられぬ汚しい茅屋」であり、教祖さま(金光大神)は、「普通の大抵の人の倍もあろうかと思われる大兵肥満の男で、顔といったら象程もある」人に、近藤先生の眼には見えたと伝えています(同『天地金の大神』)。
この近藤先生の語りには、道すがら想像していたことと大きな違いに内心驚いた様子が窺えます。都会の大阪に住む近藤先生にすれば、大谷村にある大本社は古びた印象だったのでしょう。もともと大本社は、母屋として嘉永3年(1850)に隣村須恵村の青木竹次郎の持ち家を移築したものであり、移築からさらに34年という歳月が経っていました。しかも近藤先生が初参拝した明治12年(1879)頃は、敷地内に建築が頓挫した金神社の建築資材が荒れるに任せて放置してあった(明治18年撤去)。そのことも、近藤先生にいっそう見窄らしい印象を与えたのかもしれません。
近藤先生は、大本社の粗末さを訝しみ、そのわけを教祖さまに尋ねると「天地金乃神が祠へ這入られたら此世界はくらやみになるぞ。神の祠はこの天と地とが御祠ぢゃ。金光大神なればこれで沢山であるぞ」との答えが返ってきました。その答えを聞き、近藤先生は「不用意」であったと恐縮しています。神の祠が「天地」であるという神の広大無限を示唆する金光大神の言葉に比べて、神を祀る大本社が粗末な「茅屋」である事実は、かえって金光大神の深遠性を高めることになったと思われます。
先程の絵図に描かれていますが、大本社には、門をくぐると庭があり、その東側には「東長屋」が建てられていました。「東長屋」は、文久元年(1861)に、建物の縦横の長さが、それぞれ二間と四間という様式で建てられました。それは、当時の建築常識として忌むべき事柄を大きく逸脱させようとする金光大神の意図が反映された建物でした。「東長屋」は当時の金神の禁忌を堅守する人からみれば、この世では最も忌避されるべき空間が具体的な形となって出現したと捉えられたことでしょう。だが見方を変えれば、不浄行為を神自らが打ち破るという神の新たな理と秩序が、地上界において大本社に具現化されたとも言えます。つまり、それまで地上にはなかった神の新たな理が具体的な形をもって現れている大本社に参り「東長屋」を目にすることは、神世界と直截的にふれることを意味しています。
やがて近藤先生は、月参りを重ねるようになります。ある日、金光大神は近藤先生に大阪からたびたび費用を掛けて参詣するには及ばないと諭し、その信仰確認として、「天地金乃神は何処いづくにも御座るのじゃから、どこから頼んでも霊験は蒙れます」という神の遍満性を根拠に示しています。その諭しを受けて、近藤先生は次のような感慨を抱きました。何という懇ろなる御諭であろう。出来るものなら毎日でも参詣させて頂き度い心なれども、山川遠く離るる遠方の事なれば、せめては月に二三回なりとも御引寄せを頂いておる此自分に向って、斯くも御親切なる御注意を蒙ったのである。自分はただ涙ぐみつつ其場を引退るの外はなかった。天地の親神様はこの天地なれば何処にでも御座ろう。何処で御礼御願申上げようとも差別なく御聞届け下さるに相違はない。が自分として此参詣がどうして思い止まれようぞ(『藤守先生講話集』、17~18頁)。 近藤先生は「天地の親神様はこの天地なれば何処にでも御座ろう」と一旦は得心しています。だが、近藤先生は続いて、遠方から参るには及ばないという金光大神の諭しを拒むような「参詣がどうして思い止まれよう」という思いを吐露しています。この「参詣がどうして思い止まれよう」との言には、金光大神の諭しを押しのけてまで、大本社へと惹きつけられていく強い気持ちが窺われます。
後に近藤先生は、瀬戸内海を航行する汽船を利用して大本社へ参拝するようになりますが、ある月参りの時、海が荒れて船が難破しかけ、同行の信者らに動揺が走った際に、「天地は神様の懐でないか、その懐の中の海上を通らして頂いて大本社へご参拝をする身が、何を思うて心配をせられるのか。親神様のお助け下さるは今更申すに及ばぬ」(『史伝 近藤藤守』金光教難波教会、1981年、415頁) と信者らを励ましています。「天地は神様の懐」という言葉は、たとえ嵐であっても参拝の道行きで見る風景の奥底に、神が存在するのは大本社だけでなく、神が満ち渡っていることを肌に感じているからこそ、口をついて出たのでしょう。そしてこの信仰確認は、粗末な「茅屋」に座り祈る金光大神の姿と、神の新たな「理」が具象的に開示された大本社に自らの生が支えられていることを悟得しているゆえに、近藤先生に得心されていると考えられます。このような得心があればこそ、自らの生を支えてくれている「中心」への道行きにおいて、生命が脅かされるような事態に出合っても心配するには及ばないと信者らを諭すことができたのではないでしょうか。
やがて近藤先生は大本社への参拝を「お国参り」と称するようになります。「お国」はふるさとを意味する言葉ですが、「お国参り」とは「人間存在にとって新たな根拠地とも言うべき『故郷』(共同研究「『霊地』という経験―本教における『聖地』論への試み―」紀要『金光教学』41号、80頁)」への回帰であると同時に、「場」に籠もった神の力によって加護を得るという通念を超えて、この地上で神の意思を言葉として人間世界に伝えるために金光大神が座り、神の新たな「理」が示現している「場」にふれ、常に自分に寄り添ってくれている神と確かにつながっているという実感を新たにするためであったとも考えられます。そのことによって、金光大神からの「神は何処いづくにも御座る」との諭しを確かに受けとめ、そして神と無限とも思える果てしない距離を埋めていこうとしたと考えられます。
明治22年頃の大本社の写生。若狭教会旧蔵
佐藤範雄先生や近藤藤守先生は、初参拝時に大本社に感じとった思いをもとにして、神の遍満性が確かに実感され得るために、そして「助かり」の世界を自らがつかみ取るために、大本社へと引き寄せられていきました。その参拝の道行きでは、佐藤範雄先生が岩の上で「飛んでいきたい」と祈念したように、参拝者らは教えを受けるだけでなく、大本社への参拝の道行きにおいて実践的な営みを創意し、神世界の入り口へと近づこうとしていました。そこには、具体的に現れている神世界にふれ、それまでの生き方を支配していた既成の通念を解きほぐし、助かりの世界を常に実感したいとの思いが現れていたのです。
おわりに 最後に白神新一郎先生が伝える「理解」を引用して、「さいさい参るに及ばない」と説かれていることの意味と、参ることを願う側の参拝への思いを考えてみたいと思います。
ある時の参拝の節、金光様が、「その方の広前の信者であろう。北の新地下原に住む入江カネと申す者が、此方に日参している。これを持ち帰って渡してやるがよい」と仰せられて、お書付をくださった。帰ってご祈念帳を調べてみると、まさにその名があったので、呼び寄せて金光様のお言葉を伝えると、カネは「その日稼ぎの忙しさに追われながら暮らしておる身でございます。どうして日参がかないましょう。一生にただ一度でも金光様のお顔を拝ませていただきたいと、明け暮れお願いしておるばかりでございます」と答えた。そこで、「そうもあろう。その明け暮れのお願いこそ、金光様のみもとへのまことの日参である」と諭した。 (理解Ⅱ類白神新一郎4) 入江カネさんの応答からは、日々の生活苦に追われ経済的に困窮し、日参はおろか大谷へ参る状況にもなかったこと、一生の内一度でもよいから金光大神に見えたいと毎日祈念していたことが窺われます。「さいさい」参ることは、到底適いそうもない境遇にあったと想像されます。入江さんは、白神先生から金光大神の相貌や、霊徳の高さなど聞き及んでいたことでしょう。白神先生の話は、ますます入江に金光大神のもとに参りたいという思いを募らせたことでしょう。金光大神の顔を拝みたいとの日々の祈念が、大谷に住まう金光大神に届いた思いこそが「日参」であると教えられています。
しかしながら、やはり入江さんが心の奥底で願っていたことは、実際に大本社に参り、金光大神に会い親しく教えを聞くことではないでしょうか。入江さんの言葉には、「一度でも金光様のお顔を拝ませていただきたい」という熱い思いがあふれていますが、その思いこそが、参拝が例え適わなくても神世界の実感の獲得へと向かわせるのでしょう。
入江さんは思いが適い、大本社への参拝が遂げられたら、日々の祈念をやめるでしょうか。そうではないでしょう。やはり、再び日々参拝することを願い続けることでしょう。とすれば、参拝という経験は、決して閉じられ終わることのない信仰世界の永遠を人びとに与え、生きる力を喚起するものではないでしょうか。
大本社への参拝者らは、神世界の実感的感触を自ら確かなものとしてつかもうと、創意性をもって参拝を行っていました。自ら足を運んで、金神の懐へと飛び込み、既成の観念を壊し、新たな世界へと導かれていきました。その姿勢は、今日の多様な価値観があふれる中で、生きる道に迷いがちなわれわれに、知らず知らずのうちに収まっている既成の枠組みを超え出ていく信心の営みを創造していく必要性を教えてくれるとともに、「教え」をどのように受けとめて、神世界の実感を獲得し、信心の糧へと展開していくのかを示唆してくれているのではないでしょうか。
最後に、今回ご紹介した参拝事例は、佐藤範雄先生、近藤藤守先生の二人の事例だけですが、論文では、片岡次郎四郎師、斎藤重右衛門師、仁科志加師、山本定次郎師の参拝事例を取りあげていますので、ご覧いただければ幸いです。
ありがとうございました。
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