平成19年教学講演会講演記録

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平成19年教学講演会講演記録



児山真生(教学研究所所員)


「地域」から信心を考えること


(1)はじめに


 本日、ここにお集まりの方々、もちろん、私も含めてですけれども、教祖様に始まるお道に繋がってのお互いであります。

 その上で、「私にはこのお道がどのように伝えられてきたのか」と考えてみるのですが、例えば、「あなたに信心の切っ掛けを与えてくれた人は誰ですか」と問われたらどうでしょうか。親、兄弟、友人、様々な答えがあると思います。さらに、そこから教祖様まで繋がるように道付けていくと、どのようになりますでしょうか。

 私は、徳島県にあります佐馬地教会の在籍であります。私を例に申しますと、まず、両親がいます。その上に祖父母がいて、さらに、曾祖父母がいます。曾祖父が、在籍教会の初代教会長であります。その曾祖父はどこで信心と出合ったのかと言えば、愛媛県の伊予三島教会であります。さらに、伊予三島教会は木ノ川教会で、木ノ川教会は笠岡教会で、そして、笠岡教会は教祖広前でおかげを受けています。

 このように述べていけば、何ともまあスムーズに繋がっていくようでありますが、それは事柄的に繋いだだけであって、その一つ、一つの信心が受け渡されていく関係を考えてみますとどれ一つとっても、容易なことではありません。その中でも、私が関心を持つのは、「初代」と呼ばれる方々のことであります。私の在籍教会では、書き残されたものや、言い伝えが必ずしも多くはありませんが、それでも、僅かに伝えられている布教当初には、色々とご苦労があったようであります。

(2)資料が放つ光に照らされて出来る「陰」


 各教会が発行されている教会誌(記念誌)等を拝見しておりますと、「初代」と呼ばれる先生方(もちろん、初代だけではありませんけれども)のご経験の一端に触れることがあります。その中味と申しますと、きらめくおがげの事柄をはじめ、様々なご苦労、ご苦難の様子がありありと伝えられています。

 「お道のために」とひたむきに取り組まれた先輩諸師のありようを拝読しながら、「凄いことだなあ」というヒーローやヒロインに対する羨望にも似た思いを持ったこともあります。また、一方では、「私にそれほどの覚悟があるだろうか」「果たして自分だったら耐えられたであろうか」と自らに問い掛けてみて、言い訳をしながら逃げ出す自分の姿を想像したこともあります。このようなていたらくでありますから、数多くの事柄に触れるに従って「凄いなあ」という思いを通り越して、怖じ気づくと申しますか「このお道の信心とは怖いものだなあ」と、「出来ればそんな怖い目には逢いたくないなあ」とさえ思う始末です。

 それからも、色々な先生方の本を読ませて頂くのですが、「怖いなあ」「不安だなあ」という思いが和らいでいったかと言えば、逆でありまして、「これも怖い」「あれも怖い」というように不安に思うことがどんどん増えていきました。そうは言いながら「怖い」「不安だ」と思うことを、そのままにしておけば、やがて消えて無くなるということもありません。

 私の場合、もともと臆病なもので、「怖い」と思えば、一刻も早くそれから逃れたいと考えます。そして、「どうぞ何事にも動じない、揺るがぬ信念を持たせて下さい」という具合に願います。その結果については、言うまでもありません。ともあれ、願い通りにならなかったから、改めて、求め、考えることが出来たと思います。「怖いなあ」という思い、それは、文献や資料が放つ光に照らされて出来る「陰」のようなものであります。打ち消そうとしても、自らの文献や資料への、さらには信心への向かい方が変わらない限り、どこまでも続くものであると、次第に気付かされたようなことであります。そして、「いかにものを知らないか」ということであり、「生半可なことであったなあ」ということに思い至りました。

 例えば、今生きている現実や歴史の事実というものを踏まえて考えているようでありながら、無意識のうちに、聞いたり、読んだりした「印象」で考えているということがままあります。それは物事の表面的な部分にとらわれていると言っていいかもしれません。

 とりわけ、歴史を繙きつつ、そこに現在につながるものを見出そうとしますと、「分かるように分かる」と申しますか、往々にして「都合良く分かる」(同時に、都合の悪いことは忘れていく)ということも起きてきます。

 そこで、次に、「怖ろしいなあ」「不安だなあ」と思いながらも、資料を少し詳しく、少しゆっくりと見ていくことでだんだんと「知らなかったなあ」と思うことを知り、「わくわくする」ような気持ちになってきたその一端を、申し述べてみたいと思います。

(3)布教に行った先で、お道の縁者と出会う ―四国の事例から考えたこと―


 教会から発行されている教会誌に、ご布教はじめのことを読ませて頂いておりますと、師匠のご命を受けて、あるいは、自ら願いを立てられて布教地に赴かれるという話があります。その中で、見ず知らずの土地に赴かれて、行き会った方に借家のことなど話されていると、何故だか、お道のこと、「金光教」のことをご存じの方と出合われ、それがご縁となって、屋敷の紹介を受けて、布教が始まったと記されているものがあります。

 このようなことを目にすると、「神のおはからいというものかなあ」とか、「神様からのご都合、お繰り合わせを頂かれたのだなあ」と思います。「なんとまあ、このお道の神様は凄いものだなあ」と。このように考えつつも、一方では「奇跡だ」「ミラクルだ」と思ったりもしますが…。

 このような事例も、一つや二つならば、おそらく「ミラクルだ」で済ませていたかもしれませんが、本教の中には、このような話は決して少なくはありません。「数えたのか」と問われれば困りますが、決して少なくない。むしろ、ある程度「ある」と言えます。それは「奇跡」のオンパレードのようでもありますが、そもそも事例が少ないところには「奇跡」という言葉も使えるかも知れませんが、いくつも事例を見ていると、もはや「奇跡」では済ませない、そこには、布教以前にある信心の下地、と呼べるようなものがあるのではなかろうか、と考えるようになりました。

 このことを本気で考えるようになったのは、教祖様の御祈念帳、研究所では「教祖御祈念帳」あるいは「広前歳書帳」と呼んでいる帳面によってであります。現在、明治2年から13年の御祈念帳があります。この帳面には、参拝者の出身地などが記されていますが、論文で取り上げた四国方面に限って申しますと、思っていたよりも多くの人が、四国の各地から教祖広前に参拝していたことが分かります。教祖御在世中に、四国に向けて布教した人がいた、という話は聞いたことがありませんので、これらの人は、何らかの切っ掛けを得て、自ら願いを立てて教祖広前へ参ってきた人々であったと思われます。

 四国方面で講社あるいは教会が設けられていくのは、おおむね明治20年代以降のことであります。教団や教会の歴史として記録に残る以前から、このお道の信心が既に様々な地域で営まれていたことが分かります。

 このようなことでありますから、四国に限って申せば、物流のこと、さらには、四国八八ヶ所霊場をめぐる「お遍路さん」同士が色々な情報交換をしながら歩いていたことなども考え合わせて行きますと、布教に行った先でこのお道の信心のことを知っている人が居たとしても不思議ではないように思えてきます。

 そして、このことから、少し広げて考えてみますと、本教の布教については、布教者の取り組みもさることながら、このお道の働きそのものを受け止めていく「受け皿」となるものが地域社会の側に存在していたことによって成り立っていた様相が浮かび上がってきます。

 それでは、実際に何がその働きを受け止める「受け皿」となっていたのか、その一端を次に述べておきたいと思います。

(4)信心の「受け皿」について ―伊予天満教会の事例から―


 次の資料をご覧下さい。

 明治25~26年頃、…岡本伊造が砂糖と塩の商いのため、天満より中国地方に向かう船中で、疫病にかかり苦しんでいたところ、見知らぬ旅人から「生神金光大神」と一心に御祈念を頂いて、たちどころに恢復した。その霊験あらたかなることを、村へ帰って人々に語り、天満の村にも、ぜひその神様をお祭りしようと、当時の大庄屋寺尾貫一をはじめ、村の有志と相談して、曽根綱吉、竹内濱太郎、岡本伊造の三人で金光丸と名付けた船を仕立てて、尾道の教会よりご神体を頂いて帰った(『道の源流』金光教伊予天満教会、1985年、9頁)。

 これは、愛媛県にあります伊予天満教会に残っている「信心はじめ」の様子です。 この伝承を見ますと、この地域における信心が、大庄屋を中心とした村を挙げての取り組みであったことが分かります。その他にも、「ご神体」を頂きに行った先が、どうして「尾道の教会」であったのか、つまり、瀬戸内海の対岸には、この頃ですと金光四神様のお広前をはじめ、笠岡広前などがあったなかで、どうして「尾道の教会」へと行き着くのか、色々興味深い点が含まれています。これらについて話しますと長くなってしまいますので、ここでは割愛いたします。

 話を戻しまして、ひとまず、この伝承をはじめ、その他の資料などからは、庄屋さんが持っていた人間的繋がり(村人との関係、庄屋同士の関係)と信心が広がる様子が重なっていたことが分かります。

 それともう一つ興味深い点として、この教会の近くにある氏神さんとの関わりがあります。それは、教会へお参りしつつ、一方で、氏神さんへも寄進をされていた方がいたということです。この詳細については、論文に譲るといたしまして、ここでは、このお道の信心をしつつ、同時に、氏神様へも信心しているということが分かるということを申しておきます。

 以上、申しました、庄屋さんが持っていた人間関係、氏神信仰との関わり、これらを順々に整理しますと、この地域において、本教の信心は、氏子中の紐帯によって受け止められ、庄屋の人間関係を介して広がっていった、と言うことが出来ます。

(5)おわりに


 最後に、述べてきたことの要点を中心に整理して、私の話を終わりたいと思います。

 最初に、「初代」と言われる先生方の信心ぶりを通して、そこに不安を感じていたことを申しました。その原因としては、先にも申しましたように、結局は「ものを知らない」からということでありますが、この研究との関わりで、「何を知ったか」と申せば、当初、信心の流れの話をいたしましたが、それは信心の線(ライン)に対する関心というものでありました。このことに加えて、ここで述べてきたことは、「面」的な広がりへの関心であります。このことからは、信心の捉え方を考えることになったと言えます。

 例えば、「初代の先生方はご苦労された」と言いながら、その先生がどのように生きておられたのか、日々、どのような人々と関わりを持ち、また、どのような話をされていたのかなど、あまり考えていなかったように思います。

 るる述べて来ましたことからも、布教者の周りには、信心を求める人をはじめ、隣近所の関係などなど、日々、そこにある色々なつながりを通して、信心が伝わっていくという働きがあると言えます。それと共に、「布教者一人の力」を意識するあまり現実とかけ離れた「孤高の存在」として祭り上げていたのではなかろうかと思います。

 このことは、「信心を求める人」ということにも通じていくところがあると思うのです。信奉者一人一人の背後には、様々な人と人との繋がりや、地域の長い歴史と関わりがある。このことから考えますと、そもそも「信心が伝わる」ということ自体が、個人の助かりや取り組みのみならず、その地域社会と深い関わりをもって出来ていくことであると押さえることが出来るのではないでしょうか。

 その意味で、信心が成り立ってきた「地域」に目を向けて、そこを調べていくと、信心のイメージも豊かになっていくでしょうし、地域に張り巡らされた信心の網の目を発見していくと、そこに「神様の働き」を見るような思いがいたします。論文に書いたことは、そのほんのごく一部だと思っています。当分、この関心は尽きないように思います。

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